第88話 《谷底に墜ちた者》
少年の叫びが、風に消えた。
母を失い、金と力を渇望する心を吐き出したその姿を、女はただ静かに見つめていた。
長い沈黙のあと、女は小さく息を吐き、口角をわずかに上げた。
「……なるほど」
そして、微笑の奥で言葉を紡ぐ。
「――こんな世界だもの。力がなきゃ、結局は奪われるだけ」
声は酷く自然だった。
まるで真理を告げるような静けさを帯びていた。
少年は息を詰める。
女の金の瞳が、迷いなく彼の奥底――渇いた心の芯を射抜いていた。
「わかったわ。ただし――条件がある」
短く、鋭く。
その一言に、少年は喉を鳴らした。
「……条件?」
「そう」
指先で髪を払う。視線は遠くの風を追った。
「過去を振り返らないこと。生まれた環境を憎んでも、何も変わらないわ」
その声音は穏やかだが、刃のように鋭い。
「自分の不幸に縋って逃げるのはやめなさい。……そんなこと、いつだってできる。けど、それをしても“何も生まれない”」
草原を渡る風が二人の間を抜けた。
揺れる草の音が、言葉の余韻を刻む。
女は目線を逸らさず、まっすぐに告げる。
「あなたは、これから未来を手に入れるの。だったら――前を見なさい。わかった?」
少年は迷わず頷いた。
「……わかった」
「本当に?」
「……うん。前だけを見る」
その返事を聞いた瞬間、女はにかっと笑った。
「よし。じゃあ、少しの間だけ面倒を見てやる。ただし――厳しいからね」
「それでいい。教えてくれ」
「言ったわね? 泣き言、ナシ」
その笑みは挑戦的で、どこか温かい。
少年の胸に、初めて“信じてもいい”と思わせる光が宿った。
肩をすくめ、からかうように言う。
「まずは、そのひょろひょろな身体をどうにかしないと」
「……鍛える。何でもやる」
「じゃあ、まずは歩く。腹を満たしてからね」
そう言って、ためらいもなく少年の手を取った。
小さな掌に伝わる力強い温もり――それは、世界に残っていた唯一の優しさのようだった。
胸の奥が、熱くなる。
⸻
やがて辿り着いたのは、小さな食堂だった。
女は黙って席に着き、湯気の立つ皿を二つ注文する。
テーブルに置かれた一皿。
コトン、と皿が鳴る。湯気がゆらぐ。
香ばしい匂いが鼻をくすぐり、少年の腹がかすかに鳴った。
「食べなさい。冷める前に」
「……いただきます」
その一言で、少年はスプーンを握った。
ひと口――口に入れた瞬間、涙が溢れた。
塩気も香りも、すべてが遠い記憶を呼び起こす。
“あたたかい”という感覚を、どれほど忘れていたのか。
嗚咽を押し殺しながら、少年は夢中で咀嚼を続けた。
「うまいか」
女の問いに、少年はこくりと頷く。
「……あったかい」
「だろ」
「……うん」
「それでいい。明日も食べるために、明日も立つの」
その夜、少年の胸に、初めて「未来」という輪郭が芽生えていた。
⸻
翌朝。
まだ陽の低い市場で、女は一振りの剣を買ってきた。
鍛冶場で打たれたばかりの新品ではない。手に馴染んだ、使い込まれた剣だった。
「……こんな高いもの、俺には――」
少年は慌てて首を振る。
女はあっさりと笑い飛ばした。
「いいのよ。稼げるようになったら返してもらう。それでチャラ」
軽く言いながらも、その眼差しには確かな信頼があった。
「落とすなよ。刃は命。命は、借り物のうちは特に大事に」
「わかった。必ず返す。剣も、恩も」
「恩は返すんじゃない。“回す”の。覚えときなさい」
「お金ってね、あって困ることはないけど……使わなきゃ意味がないの。私たちは明日、生きてる保証なんてないんだから」
「じゃあ、今日を生きるために使う」
「そう。正解」
女は笑い、刃の重みを確かめるように剣を傾けた。
「少し前重心ね。切っ先に癖がある。扱いに気をつけなさい」
「わかった」
⸻
――そこから、修行の日々が始まった。
朝は剣を振り、昼は走り込み、夕方は組手。
女の指導は容赦なかった。立てなくなるまで叩き込まれることも日常茶飯事。
「腕が止まってる。十本、今」
「は、はいっ……!」
少年の手は裂け、腕は痙攣し、血で柄を握れなくなることもあった。
それでも彼は倒れなかった。
剣を覚えると誓ったのは――自分自身だから。
「呼吸を置く。吸って――今」
「っ……ふ、ッ!」
「いいわ、そのまま。倒れてもいい、起き上がりなさい」
「……立てる」
そして一日の終わりには、必ず「温かい飯」が待っていた。
質素でも、誰かと分け合う一皿は格別だった。
「よくやった。今日は肉、少し多め」
「ほんとに? ……ありがとう」
「礼は明日、倍振ること」
「……うん」
「明日はお前が誰かに回しな」
「……うん、約束する」
それが彼の心と体を、確かに支えていた。
⸻
時は流れ、少年はやがて“男”と呼べるほどに成長した。
背は伸び、腕は逞しく、握る剣は己の延長のように馴染んでいた。
焚き火の光が、その横顔を照らす。
「……なんで、ここまでしてくれるんだ?」
男の問いに、女は手を止めて笑った。
「忘れたの? あんたがお願いしたんでしょ」
「それだけで?」
「それだけで、十分」
それだけの言葉に、男は返す言葉を失う。
あまりに単純で、そして温かい。
だが、女はふっと目を伏せた。
「でも――もう終わり。明日からは一人で頑張りなさい」
「……どこへ行くんだ」
「探し物があるの」
「また会える?」
「生きてたら、ね」
焚き火の炎が、金の瞳を揺らめかせる。
どこか遠くを見つめるその姿に、男は言葉を飲み込んだ。
――翌朝。
女の姿はなかった。
残っていたのは、焚き火の残り火と、一振りの剣だけ。
柄に残る体温の記憶だけが、確かな別れだった。
⸻
女との別れののち、男はひとりで鍛錬を続けた。
朝は剣を振り、昼は体を鍛え、夜は森へ出た。
やがて彼は魔物を狩り、冒険者として金を稼ぐようになった。
力を得るほど、名が広まり、財布も重みを増す。
酒場では囁きが変わり、やがて呼び名になる。
「札付きのワル」――恐れと敬意、その狭間で、彼は笑った。
しかし、町の人々には決して手を出さなかった。
母の言葉が、胸に残っていたから。
――「隣人はね、愛する者よ。助け合わなきゃ生きられない」
その記憶だけは、どれほど力に溺れても消えなかった。
だから彼は、得た金の一部を町の貧しい者たちに分け与えた。
「礼はいらない。次に困ってるやつに回せ」
罪と誇り、その両方を背負いながら。
⸻
ある日、町にざわめきが走った。
北の山に、竜が棲みついたという。
その報せを聞いた瞬間、男の胸に熱が灯る。
(……竜を倒せば、さらなる富も、権力も――すべて俺のものだ)
欲望に突き動かされ、男は仲間を率いて山へ向かった。
「派手にやるぞ。――ついて来い」
「おうよ、頭!」
⸻
――戦いは苛烈を極めた。
竜の咆哮が山を揺らし、吐き出される炎が岩を熔かす。
仲間たちは次々に倒れ、血と灰が舞った。
それでも男は退かない。
「下がるな! 今、翼を――ッ!」
傷だらけの体に力を振り絞り、剣を振り抜く。
ついに、竜の片翼を斬り裂いた。
巨体が地に叩きつけられ、怒り狂った咆哮が山に響き渡る。
(勝った……! これで俺は――!)
だがその瞬間、竜の尾が唸りを上げ、男の足を絡め取った。
体が宙を舞い、谷へと投げ出される。
「……ぐっ!」
反射的に剣を壁へ突き立てる。
岩に刃が喰い込み、火花を散らす。
「……ぐっ!」
体が宙に投げ出される。咄嗟に剣を壁へ突き立て、どうにか落下を免れた。
刃は岩肌に食い込み、火花を散らしながら男の体を支える。指先は裂け、腕は悲鳴を上げていた。
「おい! 助けろ!」
谷底に吸い込まれそうになりながら、男は仲間へと叫んだ。必死の声が山に木霊する。
だが――誰も動かなかった。
仲間たちの視線は冷たく、怒りと憎悪が宿っていた。
日頃の粗暴な振る舞い、横柄な態度、仲間を顧みない行い。
積もり積もった恨みが、ついにここで爆ぜたのだ。
「……お前だけが勝ち誇るのは、もううんざりだ」
「地獄で好きに叫んでろ!」
伸ばしかけた手は無情に離され、剣に縋る男を谷底へと突き落とした。
風が轟き、黒い深淵が口を開ける。
墜ちていく最中、男の絶望と怒りの叫びが谷に響き渡った。
やがてその声は、底知れぬ闇に呑み込まれていった。
――落下の最中。
男は必死に剣を壁へ突き立てた。刃が岩に食い込み、火花を散らす。
「折れるな……折れるなよ……!」
だが勢いは止まらず、剣が軋むたびに手を離し、また別の岩を掴んだ。
腕を裂き、壁を削り、何度も落ちては掴む。
そうして――どうにか落下の勢いを殺した。
やがて、岩場に転がり着いた。
息を荒げながら、血まみれの手で剣を握り締める。
「……生きてる」
その先に――竜がいた。
翼を裂かれた巨躯が、血に濡れた鱗を震わせていた。
咆哮は弱く、それでも眼光は鋭い。
獣の王に相応しい、最後の光。
男の胸に、ぞくりと歓喜が走る。
(……倒せる。俺なら、この竜を――!)
痛みに震える体を押さえ込み、男は立ち上がる。
剣の刃先が、炎に照らされるように輝いた。
「竜を殺して……谷を上がって……」
掠れた声が、嗤いへと変わる。
「……あいつらは」
「皆殺しだ」
怒りと憎悪を燃料に、男は血に濡れた大地を駆け出した。
その眼差しは、もはや獲物しか映していなかった。




