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『魂を導く紋章師』  作者: nukoto


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第86話 「灰の果てに、舟はある」

 炎の奔流が広間を焼き尽くし、影の黒い輪郭が軋むように震えた。

 サラの大剣が振り下ろされるたび、瘴気で築かれた壁は削がれ、黒い残滓が飛沫のように四散する。


「どうしたの、“英雄様”。その程度じゃ――私には届かないわよ」

 金の瞳が爛々と輝き、唇には戦いを喜ぶ笑み。

 挑発の言葉どおり、炎に押された影は後退を余儀なくされる。

 その姿はすでに「戦士」の形を維持できず、黒い靄は綻び、輪郭は歪みに歪んでいた。

 だが――そこで崩れることはなかった。


 影は呻き声をあげ、瘴気を爆ぜさせる。

 広間の床が震え、天井から岩片がぱらぱらと降り落ちた。

 裂け目から溢れ出した黒の奔流が広間を埋め尽くし、散り散りになっていた靄が渦を巻き、ふたたびひとつに凝集していく。


「……っ、まだ来るか」

 サラは大剣を構え直し、金の瞳を細める。その口元はむしろ愉悦に歪み、炎を纏う刃先が熱を帯びて唸った。


 影の身体は異様に膨張していく。

 人の形を模していた輪郭はついに崩れ去り、鎧は外殻のように肥大化し、握られた剣は黒い塊へと変じていく。黒塊の中心で、剣芯だけが心臓のように微かに脈打つ。

 四肢は不格好に伸び、背からは靄の腕のような異形の突起が幾本も蠢き出した。


「……っ、なんて圧だ……!」

 リアンは腕で顔を庇いながら、息を詰める。

 瘴気の圧は倍増し、呼吸をするだけで肺を蝕まれるほどの重さが広間を満たしていた。

 竜の遺骸が軋む音を響かせ、空気そのものが黒に塗り潰されていく。


「……異形化、ね」

 サラは楽しげに呟き、大剣を肩で構え直す。怯えも恐れも一切ない。

「いいじゃない。ますます燃えるわ」

 その声音には、まるで試合前の闘志のような高揚が混じっていた。


(……サラは楽しんでいる……けど、あれはもう“英雄の影”なんてものじゃない。魂の執着と瘴気が、完全に混ざり合って……!)

 リアンは奥歯を噛み締め、右手の紋章を押さえた。


 次の瞬間、黒い異形が咆哮を放つ。

 黒の奔流が広間を轟かせ、灼熱の炎と正面衝突する。

 稲妻のような閃光が織り交ざり、赤と黒が渦を巻いて激突した。


「はああッ!」

 サラが咆哮を返すように踏み込み、大剣を振り抜く。

 炎と黒波が噛み合い、広間は灼熱と暗い渦に呑まれた。

 火柱が唸りを上げ、黒い波動が押し返す。衝撃波がたびたび床石を鳴らし、竜の亡骸の骨までもが軋む。

 だが――その只中に立つサラの金の瞳は、なお揺るがぬ光を宿していた。


「……でも、そろそろおしまいにしましょうか」


 軽やかに告げられた声は、嵐のような轟音の中でも澄み切って響く。

 リアンは思わず荒い息を止め、サラを見つめた。


「本当によく、ここまで鍛えあげたわね」

 刃を構えたまま、彼女は微笑む。戦場のただ中であるにもかかわらず、その声音は驚くほど静かだった。

「……頑張ったね」


「え……?」

 リアンの胸に、その一言が沁み込んだ。

 だが――その金の瞳が見据えていたのは、彼ではない。


 サラの視線の先には、なおも立ち塞がる“英雄の影”。

 瘴気にまみれながら、剣を掲げようとする黒い異形の姿があった。


 黒い靄が呻き、影は武器を構える。

 それは戦士としての最後の意志。誇りと執念の残滓が、なお剣を振るうためだけにその身を繋ぎ止めていた。


「まだ立つのね……ほんと、頑固」

 サラは小さく笑い、ゆっくりと大剣を振りかぶる。

 炎が刃を包み込み、広間の影を押し退ける。

 その刹那――彼女の口元に浮かんだ微笑は、驚くほど柔らかかった。


「――またね」


 低く、確かに響く別れの言葉。

 振り下ろされた剣閃は炎の奔流をまとい、迷いなく影を断ち割った。

 黒き戦士は最後の力で防ごうと剣を掲げる。しかし炎はすべてを呑み込み、刃ごと押し斬り裂く。


 轟音が広間を震わせ、爆ぜた火花と黒い残滓が激しく散った。

 黒影は叫びも上げず、炭片のように崩れ、炎に呑まれていく。


 ――そして、音が抜けた。灰の粒子だけが、ゆっくり落ちる。


 漂っていた瘴気はゆるやかに霧散し、赤い火の粉だけが宙を漂う。

 サラはひとり、大剣を携えたままその場に立ち尽くしていた。

 背を向けるその姿は揺るぎなく、強さと――戦い抜いた者への確かな敬意を刻み込んでいた。



 炎の残滓が漂い、赤い光の粒が空気に溶けていく。

 その静寂の中で、リアンはサラの背を見つめていた。


 銀髪を揺らし、大剣を携えたまま瘴気を切り裂いて立つ姿――それは、圧倒的な強さそのものを体現していた。

 ただ在るだけで空気を支配し、戦いの余韻すら従わせる。


(……強い。こんなにも……)


 呼吸を忘れる。胸の奥を震わせるのは恐怖ではなかった。

 むしろ、目を奪われるような憧れ。いつか自分も、あの背に並び立てるのだろうか。

 そんな思いが、不意に胸を熱くした。


 やがて、サラは振り返った。

 戦いを終えたばかりとは思えないほど落ち着いた表情で、金の瞳がまっすぐリアンを射抜く。


「リアン。――浄化をお願い」


「……ああ」

 澄んだ声は、広間に柔らかく響いた。

 リアンは深く頷き、視線を落とす。


 そこには――斬り伏せられた英雄の剣が転がっていた。

 刃は欠け、表面には無数のひびが走っている。だが、その周囲にはまだ黒い靄がまとわりつき、じわじわと漏れ出すように広がっていた。

 それは確かに、まだ安らぎを得ていない魂の残滓の証だった。


「……まだ残ってる」

 リアンは息を細く抜き、頷いた。

「あぁ……わかった」


 歩みを進めるたびに、靄が足元に絡みつき、冷たい圧を押し付けてくる。

 だが足は止まらなかった。導き手としての役割が、今まさに自分に委ねられている。


 そして彼は、剣の傍らに立った。

 右手を胸に添え、深く息を吸い込む。

 ――ここからが、自分の戦いだ。


 リアンは剣の前に立ち、ふと横目でサラを見た。

 大剣を肩に担ぎ、勝利を収めたはずの彼女の横顔には、ほんの一瞬――寂しげな影が差していた。


(……サラ……)


 声をかけたい。だが今は――。

 早く魂を還さなければ、この場に囚われたままになる。導き手として、目を逸らすことは許されない。


 リアンは瞼を落とし、一度だけ深く吸って、ゆっくり吐いた。

 落ち着きを取り戻すと、そっと剣へと手を伸ばした。


 既に断たれたはずの錆びた刃。その表面にはなお黒い靄が絡みつき、怨嗟の残滓が燻るように揺らめいていた。

 指先が触れた瞬間、冷たい波が胸を深く貫く。氷のような感触が骨の髄まで染み込み、思わず息を呑んだ。


「……まだ、この世にしがみついている」

 低く呟き、リアンは拳を握りしめた。

「……大丈夫。舟は、ここにある」


 掌の紋章が淡く光り始める。

 背後で空気が歪み、光が一点に収束する。形なき舟――《箱舟》。

 光は揺らめき、まるで包み込むように闇へと広がっていく。


 その瞬間、リアンの意識は深淵へと引き込まれていった。


*


 谷底を目指し、必死に進む冒険者たちの姿。

 竜の骸を奪おうと欲望に駆られた影。

 杭を足場に降りる途中、魔物に襲われ喰われる刹那の絶望。


「死にたくない……! こんな世界じゃなければ、こんなことしなくてもよかったのに!」


 ――数多の断末魔が奔流のように押し寄せ、リアンの胸を締めつける。

 恐怖、憎悪、後悔……名もなき冒険者たちの声が、滝のように彼を呑み込んでいく。


 必死に耐える中――ふと、異質な気配が混ざった。

 凍てつく絶望の中に、鋭く、静かに光るもの。

 無数の叫びを突き破り、一つの意志が深淵の奥から響いてきた。


「――まだだ」


 刹那、リアンの意識は震えた。

 それは冒険者の断末魔ではない。

 圧倒的な存在感と、揺るがぬ誇りを宿した声。


 ――英雄。


 ついに、その魂の記憶へと辿り着こうとしていた。


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