第68話 《森に残る声》
「……紋章……!」
リアンの瞳が見開かれる。幹の奥に、複雑な刻印が淡く輝いていた。
瘴気を生み出す核――その正体がそこにあった。
だが、そこへ至る道は絶望的に遠い。幾重にも絡みつく木肢と根が、牙のように襲いかかり、触れることさえ許さない。
見えていても、今の彼の手数では到底届かなかった。
「なら……!」
リアンは左手を掲げ、《風の精霊紋章》を強く輝かせる。
短剣に纏わせた風を解き放ち、刃のごとき衝撃を奥の紋章へと撃ち込んだ。
風が唸りを上げても、枝は微動だにしなかった。
層になった枝の盾は鋼より硬く、容易に突破は許さない。
「いい判断よ」
背後からサラの声が響く。冷ややかに聞こえるが、わずかに評価の色が混じっていた。
「けど、もっと周りを見なさい。使えるものは何だって使うのよ」
「……言われなくても!」
リアンは荒い息を吐き、迫りくる枝を必死に斬り払う。
防戦に追われ、風刃は防御に費やされるばかり。攻めに転じられず、じりじりと追い詰められていく。
「ッ――!」手首に痺れが走る。握りが一瞬だけ緩んだ。痛みが、焦りを刺す。
サラは銀のツバメを操りながら、その様子を一瞥し、低く呟いた。
「……防御だけは、悪くない。肘が流れてる。親指の力、抜いて――刃は風に任せなさい」
リアンは奥歯を噛み、心の中で反芻する。
(……使えるものは何でも……! じゃあ、俺には――)
視線の端に、枝を切り払いながら一歩も退かない背中が映った。
冷ややかに構え、ツバメを自在に操るサラの姿。
リアンはふっと息を吐き、小さく笑った。
「そうか……そういうことか」
次の瞬間、枝を薙ぎ払いながら彼は一直線に大木の奥へと駆け出した。
「――リアン!? ちょっと、はぁっ!? 待ちなさい!」
サラの声が追う。驚きと呆れ、そしてわずかな期待が混じっていた。
「無茶にも限度があるでしょ!」
それでも――心のどこかで、笑っていた。
だがリアンは振り向かず、心の奥で呟いた。
(……俺にはサラがいる。必ず援護してくれる。だから――行ける!)
風刃だけでは届かない。短剣ひとつでは削りきれない。
だが、銀のツバメが既に彼の死角を守っていた。
リアンは全力で刃を振るい、梢の鞭群を裂いて道をこじ開ける。
風でわずかな隙を押し広げ、さらに奥へ――。
「はぁっ……! 今しかない!」
裂け目の最奥で、刻印の輪が明滅――心音と噛み合い、ひと拍ごとに光が脈を打つ。
視界の奥で、紋章の光が確かに煌めく。
鋭い羽音が背後で重なり、銀の閃光が迫る枝を斬り伏せる。
「……まったく、無茶するんだから」
サラは小さく舌打ちをしつつ、金の瞳を細めた。
リアンの無謀は、ただの自滅ではなかった。彼は彼女の力を“信じて”、背を預けたのだ。
「――いいわ。受けて立つわ、本当に面倒な男ね。……落ちたら拾う。だから――落ちないでよ」
ツバメが一斉に舞い、風の軌跡がリアンの前路を切り開いた。
その一瞬の隙に、リアンは短剣を振り抜く。
「はぁぁっ!」
風を纏った刃が木肢を割り、進路を穿つ。
「今よ――!」
サラの声が鋭く響く。
リアンは渾身の一撃を紋章へと叩き込んだ。
風刃が裂け目を貫き、刻まれた紋章が揺らぎ、閃光が白く跳ね、樹洞の闇が一瞬だけフィルムの焼け跡みたいに透けた。
次の瞬間、瘴気が爆ぜ、黒い靄が渦を巻き辺りを覆った。
「っ……!」
リアンは咄嗟に顔を庇うが、抗えぬ引力が視界を飲み込んでいく。
――右手が、紋章に触れていた。
指先が刻印に触れた瞬間、骨の内側でキイ、と金属が擦れたみたいな痛みが走った。
次いで、幾重もの声が全身に雪崩れ込む。
憎しみ。悲しみ。怒り。誰かを呪う叫び、奪われた嗚咽、踏みにじられた怒声。
音が遠のいた。色が一度、反転する。
――そして――。
視界が暗転し、ひとつの情景が浮かび上がる。
――街道。
陽が傾きかけた空の下、砂埃が舞い、叫び声が響く。
視線は低い。土埃の向こう、父の背だけが、世界のすべてに見えた。
複数の影が馬にまたがり、剣を振りかざしていた。
商人の荷馬車が襲われ、護衛の冒険者たちが必死に応戦している。
だが数で劣り、次々と倒れていった。
「にげろ!」「こどもを守れ!」
断末魔(近)と怒声(遠)が交錯し、炎の矢が馬車を燃やす。
泣き叫ぶ声が渦を巻き、母親が子を強く抱きしめた。
子供の目に映るのは、父の背中だった。
「大丈夫だ……! お前は守る!」
そう叫んで街道に立ちはだかった父の姿。
次の瞬間、鮮血が飛び散り、母の悲鳴が重なる。
山賊の刃が父を打ち倒し、母と子を容赦なく囲い込んでいく。
――憎悪。
――恐怖。
――生きたい。守りたかった。
無数の感情が、子供の視線を通してリアンの胸を突き刺した。
右手の《箱舟の紋章》が熱を増し、魂の叫びを抱きとめるように光を広げていく。
轟音と共に大木の巨体が揺れ、幹に走った亀裂が一気に広がった。
怨嗟の声を上げていた無数の顔は次々に砕け、崩れ落ちていく。
根と枝は痙攣するように蠢いたのち、しばらく空を掴むように震え――
それから、力尽きるように静かに沈黙していった。
やがて、瘴気を撒き散らしながら巨木は重々しく大地に倒れ込む。
大気を震わせる衝撃と共に土煙が舞い上がり、辺りの景色を霞ませた。
音がひとつずつ遅れて消え、最後に――風すら止んだ。
その光の奥で、誰かの涙が零れ落ちたように見えた。
その中心――倒れた幹の裂け目に、一つの紋章が残されていた。
黒ずんだ木肌に埋め込まれるように刻まれ、今なお淡く脈動を繰り返している。
そこから溢れ出す瘴気は止むことなく、空気を淀ませ、森全体をじわりと侵していた。
リアンが一歩近づこうとしたその時、鋭い声が背を打った。
「……あんた、馬鹿じゃないの?」
振り返ると、サラが腕を組み、金の瞳を細めて立っていた。
「“何でも使え”って言ったけど……そういう意味じゃないわ。
無茶して突っ込んで、死んだら元も子もないでしょ」
その声音は冷ややかでありながら、わずかな震えを孕んでいた。
怒りに似ていたが、それ以上に焦燥と心配の色が混じっている。
リアンは彼女の表情を見て、荒い呼吸の合間にふっと息を漏らした。
口元にかすかな笑みが浮かぶ。
「……でも、届いただろ」
サラの瞳が揺れ、一瞬言葉を失う。
やがて小さく視線を逸らし、肩をすくめて吐き捨てるように言った。
「……私がいる時は、それでもいいわよ」
そして、息を吐くように小さく続けた。
「……見てたわよ、ずっと。だから怒ってるの」
唇はわずかに尖っていて、その態度はどこか拗ねているようでもあった。
リアンは小さく頷き、視線を紋章へと戻す。
倒木の裂け目に埋め込まれたそれへ右手をかざし、深く息を吸い込んだ。
「舟は……ここにある。――行こう」
次の瞬間、彼の背後に形なき《箱舟》が揺らめく幻影となって浮かび上がる。
右手に刻まれた《箱舟の紋章》が淡く脈動し、光を帯び始めた。
瘴気を押し返すように清浄な波紋が広がり、淀んでいた空気にかすかな澄明が戻っていく。
やがて、その光に導かれるように、ひとつ、またひとつと、小さな魂の光が浮かび上がった。
怨嗟は掻き消え、代わりに祈りのような気配が辺りを満たしていく。
リアンはそのひとつに手を伸ばした。
右手の紋章が輝き、触れた瞬間、光は淡く震えながら人の形をとり、断片的な記憶を彼に映し出す。
――父。
土埃舞う街道で剣を握り、振り返ることなく「お前を守る」と叫んだ。その声は戦場の喧噪に呑まれながらも、確かに刻まれていた。
――母。
夫が崩れ落ちた瞬間、子を抱き締めて覆いかぶさるように叫んでいた。
涙に濡れた顔は、それでも子を安心させようと笑みを作ろうとしていた。
――子。
幼い手を必死に伸ばし、「生きたい」と願った。
か細い声は泣き叫びよりも深く、魂の叫びそのものとしてリアンの胸に響いた。
それらの光景は一瞬の幻のように過ぎ去り、光は安らかに舟へと吸い込まれていく。
だが――最後に残ったひとつの光だけは違っていた。
「……っ!」
リアンが触れた瞬間、右手に焼けつくような熱が走る。
光は舟に乗ることなく、逆にリアンを呑み込むように脈打ち始めた。
同時に、木に刻まれた紋章が強烈な輝きを放つ。
怨嗟の声に混じり、今まで霞んでいたあの微かな言葉が鮮烈に響いた。
――生きていたい。
――あなたと、生きていたかった。
その願いは確かな声となり、リアンの胸に深く突き刺さる。
強い光に包まれ、意識が引きずり込まれるように闇へと沈んでいった。
――そして、導かれるように映ったのは、紋章に宿った《記憶の残響》だった。




