第66話 「声を、行き場所へ」
――翌朝。
薄霧が立ち込める村を後にして、リアンとサラは北の森へと歩を進めた。
道端には、枯れかけた畑と、土に沈んだ鍬が放置されたままになっている。
瘴気の影響で作物が育たず、村人たちは疲れ切った表情で朝を迎えていた。
そんな光景を背に、二人は無言で歩き出した。
空はまだ白んでいるだけで、日の光は木々の梢を越えるたびに淡く揺らぎ、靄の粒を金色に染めていた。
冷えた空気の中に、湿った土と朽ち葉の匂いが混じり、吐く息は白い煙となって流れていく。
「……空気が重いな」
リアンがつぶやく。
サラはわずかに頷きながら、指先で霧を払うように前を見た。
「瘴気が薄く漂ってるわ。昨日の話、やっぱり当たりね」
森に踏み入るごとに、空気は濃く、重く沈んでいった。
鳥の声が遠のき、代わりに――耳を澄ませなければ気づけないほどかすかな囁きが、風に混じって滲みはじめる。
「……憎い……苦しい……」
「……返せ……奪った……」
複数の声が折り重なり、湿り気を帯びた空気に染み込む。
怨嗟と嘆きが絡みつくように押し寄せ、ただの森のざわめきではないとすぐにわかる。
リアンは足を止め、眉を寄せた。
「……声が、聞こえる」
サラが振り返り、金の瞳を細める。
「声? 私は何も聞こえないわ」
「……いや、確かに聞こえる。怨みや苦しみだけじゃない……誰かが――」
リアンの声が途切れた。胸の奥に、冷たい痛みが走る。
「……生きていたい……」
「あなたと、生きていたかった……」
その言葉に、リアンは拳を握る。
喉が詰まり、息が震えた。
「……この声、放っておけない」
助けを求める声を見過ごしたら、あの日と同じになる――そんな気がした。
「リアン、待ちなさい」
サラが短く呼び止めた。
「そんな“声”に引かれていったら、簡単に呑まれるわ。瘴気の中で聞こえる声なんて、まともじゃない」
そして、一拍置いて付け加える。
「呑まれる前に私が引き戻すけど――今は、前だけ見て」
リアンは首を横に振る。
「それでも――確かに“助けを求めてる”声だ」
「……まったく、あんたってやつは」
サラは肩をすくめた。けれどその背中を、どうしても見捨てられなかった。
その足取りは、すぐ後ろにぴたりとついてきた。
⸻
木々の切れ間が広がり、一本の巨大な大木が姿を現した。
かつては天を衝くほどの威容を誇っていたであろうその樹は、すでに命を失って久しい。
幹は黒ずみ、表皮は崩れ落ち、ところどころに深い亀裂が走っている。
内部は空洞化し、裂け目からは闇が覗いていた。
根元にはさらに大きな裂け目があり、そこから濁った靄が絶え間なく噴き出している。
黒靄は風に散らず、地を這い、周囲の草木を蝕んでいた。
葉は落ち、土はひび割れ、生命の色はどこにもなかった。
湿った鉄の匂いが舌に貼りつき、肺の奥が冷たく痺れた。
「……ここだ」
リアンは息を詰めて立ち尽くす。
声はなおも滲み続けていた。怨嗟と嘆きの合間に、必死の願いが縫い込まれている。
導き手としての感覚が、確かにそこに囚われた魂の存在を告げていた。
サラは腰の大剣に手を添え、冷ややかに言った。
「どうやら瘴気の源は、この木ね」
「……これほどの量、自然発生じゃない」
「同感。誰かが“縛った”のかもしれないわ」
声は落ち着いていたが、金の瞳には険しい光が宿っていた。
「リアン。気を張りなさい。ここから先は……ただの調査じゃ済まないかもしれないわ」
「わかってる。……行こう」
森の空気はさらに沈み、靄は生き物のように揺らめき、足もとから絡みついてくる。
大木の空洞は、まるでその奥に何かを呑み込み、閉じ込め、いまも呻き続けているかのように、ぽっかりと口を開けていた。
⸻
リアンが大木へと歩み寄ろうとした瞬間だった。
――ごう、と風が揺らぎ、森がざわめく。
周囲の木々が、まるで生き物のように軋んだ。
枝が震え、幹の表面が膨れ上がり、やがてそこに人の顔のようなものが浮かび上がる。
苦悶に歪んだ目、口、鼻――形は不完全で、しかし確かに「叫んでいる」としか思えぬ表情だった。
「……あれは……!」
リアンは息を呑み、足を止めた。
サラが低くつぶやく。
「魂が……木に取り込まれてる?」
声が重なる。
怨み、憎しみ、嘆き、そして――助けを求める声。
足元の落葉が、内側へ吸い寄せられる。
リアンが見下ろすと、円陣のように枝の槍が収束し、森の心臓がこちらへ脈打っていた。
地面の根がわずかに蠢き、靴底を一歩だけ後ろへ引こうとした。
「まるで大木を守ってる……いや……」
リアンの耳に、怨嗟の声に混じって微かな囁きが届く。
「……たすけて……まだ、生きたい……あなたと……生きていたかった……」
敵意に満ちた動きとは裏腹に、その声は切実で、哀願に似ていた。
斬るべきか、救うべきか――一瞬、リアンの胸に激しい葛藤が走る。
喉で声が割れた。
「……救えるのか、俺に……?」
その肩に、背後から冷ややかな声がかかる。
「……多数相手の訓練、ね」
サラだ。
金の瞳を光らせ、ゆったりと後ろへ下がっていく。
風に揺れた銀髪が一筋、彼女の頬をかすめた。
腰の大剣には触れず、指先を鳴らすだけで銀のツバメが虚空に舞い上がる。
羽音が一瞬だけ森の静寂を裂いた。
銀のツバメがキィンと空を切り、枝の節目だけを正確に断つ。
「危なくなったら助けるわ。だから、あんたはやりなさい」
「……サラ」
「迷う暇はない。生きてるうちは戦えるでしょ?」
挑むような声音だったが、その裏には確かな信頼が滲んでいた。
⸻
次の瞬間、木の魔物たちが一斉に襲いかかってきた。
枝が槍のように突き出され、幹がねじれて迫りくる。
百を超える木々が一斉に動けば、それはまるで森そのものが敵に変わったかのようだった。
「……来い!」
リアンは短剣を握り直し、左手の甲に浮かぶ《風の精霊紋章》を解き放つ。
緑の光が瞬き、周囲の空気が刃へと変わる。
迫る枝を風刃で裂き、跳躍して幹を駆け上がり、斜めに斬り払う。
倒れた木の魔物は呻き声のような響きを漏らしながら地に沈む。
衝突音が鼓膜を叩き、風鳴りが一瞬上ずった。
しかし背後からはすぐに別の幹が伸び、枝が絡みつこうとした。
「リアン、後ろ!」
サラの声と重なって、銀の閃光が横薙ぎに走る。
背後を襲った木は、風の翼を持つツバメに切り裂かれた。
小鳥ほどの幻影が疾駆し、鋭い風刃で魔物を刻み、瞬く間に木片へと変える。
「ほら、集中切らさないでよ!」
からかうような声が飛ぶ。
リアンは歯を食いしばり、風を纏った短剣を振るった。
風の奔流に乗る。迫る幹を跳び越えざま、一閃。
気流がちぎれ、幹を裂く風刃が広がる。
複数の木がまとめて断たれ、黒い靄を吐きながら倒れ込んだ。
だが、斬るたびに胸に滲む。
――助けて、まだ、生きたい。
その囁きが、リアンの刃を鈍らせた。
彼は知っている。この枝や幹の奥に、かつての「人の魂」が囚われていることを。
だが、迷えば死ぬ。
サラの言葉が脳裏をよぎる。
その瞬間、横合いから飛び出した幹がリアンを薙ぎ払おうとした。
――しかし、銀の閃光がそれを断ち切る。
「ほら、集中!」
サラの声が飛ぶ。
彼女は大剣を抜かず、銀のツバメだけを操っていた。
小さな鳥の幻影は十にも二十にも分かれ、音もなく枝を斬り刻み、幹を削り取っていく。
風圧が彼女の髪を持ち上げ、金の瞳が稲光のように閃く。
襲い来る魔木を次々と切り裂きながら、彼女はあくまで余裕の笑みを崩さない。
「心配はいらないわ。あんたが倒れそうになったら助ける」
金の瞳が鋭く光る。
「でも、それまでは――自分で立ちなさい。導き手」
「……わかってる!」
リアンは短く息を吐き、再び構えを正した。
足下に風が集まり、体が軽く跳ね上がる。
風の奔流に乗る。迫る幹を跳び越えざま、一閃。
枝が裂け、声が響き、靄が弾けた。
「……俺が導く!――声を、行き場所へ」
刃が描いた弧が、囁きを切り開く道になった。
風刃が止み、森の心音だけが耳の奥で反響した。
森全体が呻くように揺れた。
大木の根元に広がる空洞が、さらに濃い靄を吐き出し始める。
声はより鮮烈に響き渡る。怨嗟と悲鳴、そして――ただ一つの願い。
「……あなたと、生きていたかった」
リアンの胸に、その言葉が深く突き刺さった。
――風が止み、森のすべてが黙祷を捧げたようだった。




