第64話 「旅路の灯 ―記録者と導き手―」
朝の光が街を越え、石畳を白く照らしていた。
馬車の車輪が軋むたび、昨日までのざわめきが遠のいていく。
まだ胸の奥に残る温もりを振り切るように、二人を乗せた馬車は新しい道を進んでいた。
リアンは膝に地図を広げ、目を細めて指で線をなぞる。
隣ではサラがパンをちぎり、頬張りながら窓の外を眺めていた。
「……次の目的地は山沿いの村だ」
リアンは封書を広げ、淡々と読み上げた。
「昔、帝国の占領下にあった場所。依頼は――残留した瘴気と魂の調査」
サラは口をもぐもぐさせたまま、軽く眉を上げる。
「帝国ね。どうせロクなことしてないでしょ。あの辺りの連中は、後始末も下手だし」
「被害も多かったらしい。……調査だけで済めばいいけど」
リアンは視線を地図に戻し、静かに言った。
「ま、何が出ても焼けば済むわ」
サラは肩をすくめ、空を見上げた。
「それより次の宿場町、飯が美味しいといいわね。昨日の干し肉、もう見たくもない」
リアンは苦笑を浮かべた。
「二日で着く。今日は宿場町まで行こう」
「了解、旅の導き手殿」
からかうような声に、リアンは呆れ顔でため息をついた。
――その瞬間、風が変わった。
森へ入る道すがら、湿った空気にざわめきが走る。
翅の擦れる音が低く唸り、草むらの奥で影が蠢いた。
「……来る」
リアンの声が鋭くなる。
闇色の甲殻を持つ《毒針蜂》の群れ。
赤く光る複眼が一斉にこちらを向き、空気が一瞬で張り詰めた。
リアンは手綱を引き、馬を落ち着かせる。左手を掲げた瞬間――
《風の精霊紋章》が淡い緑光を帯び、空気が震えた。
一匹が一直線に突進する。
リアンは踏み込み、短剣に風を纏わせて斬り上げた。
空気の刃が閃き、蜂の腹を裂く。毒針が地に落ちて突き刺さる音が響く。
サラが後方で腕を組み、余裕の声を上げた。
「速くなったじゃない。前よりいい動きよ」
「褒めてるのか、それ」
「珍しく、ね」
残り二匹が襲いかかる。
リアンは風圧で翅を叩き落とし、斬り裂く。
最後の一匹が毒液を吐きかけてきた瞬間、リアンは風幕を展開。
液が弾かれ、光が散る。その隙を突いて踏み込み――突き抜けた。
沈黙。
蜂たちは断末魔のように痙攣し、やがて動かなくなった。
リアンが肩で息をつく。サラは軽く口笛を鳴らした。
「見事ね。あんた、やっぱり戦場でもやっていけるわよ」
「遠慮しとく。魂を導くだけで手一杯だ」
「でも、導くにもまず生きてなきゃでしょ?」
サラはそう言って片目をつむり、蜂の死骸へ近づいた。
器用に毒針と甲殻を剥ぎ取りながら笑う。
「宿代くらいにはなるわね。いい素材よ、これ」
「……現実的だな」
「旅は金が命。理想じゃ飯は食えないの」
リアンは苦笑しつつ、袋をまとめた。
森を抜ける風が、静かに二人の間を吹き抜けていく。
やがて夕暮れ、山の稜線の向こうに小さな灯が瞬いた。
「あそこだ……宿場町」
サラはぱっと表情を明るくする。
「やった! 温かいご飯とお風呂! 文明の香りよ!」
「はしゃぐなって」
「だって、あんた。干し肉より人の作った飯のほうが幸せでしょ?」
「否定はしない」
リアンの肩の力が、少しだけ抜けた。
――
宿場町の灯火は、旅人たちを迎えるように揺れていた。
中に入ると、暖炉の火と人々の笑い声が心地よく響く。
リアンが宿の主人に声をかける。
「部屋を二つ、お願いできますか」
「一つでいいわ」
サラの声が重なった。
「……え?」
「節約よ。どうせ慣れたでしょ?」
リアンは一瞬絶句し、主人に気まずく笑う。
「……そ、そうですね。一部屋でお願いします」
鍵を受け取り、隣で満足そうに笑うサラを横目に、リアンは小声で言った。
「……せめて事前に相談してくれ」
「言っても同じでしょ?」
「まぁ、そうだけど……」
――
部屋に荷を置くと、二人は食堂へ向かった。
香ばしい匂いと暖かい空気。
サラは椅子に腰を下ろすなり、手を挙げた。
「すみませーん! 料理を! あとお酒も!」
「ちょっと待て」
リアンが即座に突っ込む。
「節約って言ってたの、どこの誰だ?」
「これは別腹よ。心の栄養。あんたも飲みなさいよ、たまには」
「いや、俺は……」
「大丈夫、酔っても介抱してあげる」
「それが一番怖い」
そんなやり取りに、周りの客がくすりと笑う。
料理が運ばれ、湯気が立ち上る。
サラは目を輝かせながら、肉を頬張った。
「ん〜……最高! やっぱり人の手の味って偉大よね」
リアンもスープを口に運び、少し表情を和らげた。
「……ああ、温かいな」
「でしょ?」
サラは得意げにグラスを掲げる。
「この瞬間だけは、世界の汚さも忘れられる。――だから飲むのよ」
リアンは小さく笑い、グラスの縁を合わせた。
「……じゃあ、忘れすぎないように」
――
夜更け。
二人は部屋に戻る。ランプの光が柔らかく揺れ、外の喧騒が遠のいていた。
リアンは机の上に荷を下ろし、毒針蜂の殻と針を取り出す。
冷たい甲殻が光を反射し、空気にわずかに瘴気が残っていた。
「……やっぱり、やるのね」
サラが肘をついて覗き込む。
「こういうの、ほんと職人よね。導くだけじゃ飽き足らない?」
「違う。……導くために、記録するんだ」
リアンは淡々と答え、殻に指先をかざす。
淡い光が滲み、欠片が宙に浮かぶ。
サラは目を細め、その光に見入った。
「同じ魔物でも、出す光が違うのね……。まるで魂みたい」
リアンは静かに紋章書を開き、頁に欠片を収める。
閉じる音が小さく響く。
「これでいい」
「ほんと、あんたらしいわね」
サラは笑みを浮かべ、ランプの明かりの中で言った。
「ねぇリアン。……あんた、記録してるのは“紋章”だけじゃないでしょ?」
「どういう意味だ?」
「そういう目をしてるのよ。――全部、覚えていたいって」
リアンは少しだけ目を伏せ、笑みを漏らす。
「……かもしれないな」
光が静かに消える。
残ったのは、夜の静けさと、言葉にできない温もりだった。




