第63話 「一羽の鳥を見上げて」
導きの光が消えてもしばらく、部屋には薄い波紋の名残が漂っていた。
窓の外で風が鳴り、机の上の袋の口がかすかに揺れる。
リアンは右手を胸の前で握りしめ、残響のような温もりを指の内側に確かめた。
「……怨みにも、紋章にも縛られていない魂が、あるんだな」
低く、掠れた声。
「それを見つけたのは偶然だ。探して見つけるのは、きっと難しい」
サラはベッドの端に腰を下ろし、長い髪を耳にかけて言った。
「いいえ。これは必然だったのよ」
その目は、さっきまで小さな寝息があった場所を見つめている。
「君がここにいて、手を伸ばしたから届いた。偶然に見える出会いも、選んだ歩幅の先に来るものよ」
「……選んだ、歩幅の先」
リアンは呟き、手の甲に刻まれた舟紋を見つめた。
薄く、名残惜しむように熱が返ってくる。
「でも、世には数えきれないほどの魂がある。今日みたいな“残り火”を探して歩くなんて、現実じゃないよ」
サラは目を細め、首を横に振った。
「全部を導くなんて、誰にもできないわ」
ゆっくりと立ち上がり、彼の方へ歩み寄る。
「でもね――君に届く声を無視しないこと。それだけは、君にしかできない」
「俺にしか……」
リアンは息を詰めた。
「全部救えないのに、それでも、手を伸ばす意味があるのかな」
「あるわ」
サラの声が、夜の静けさの中にやさしく落ちた。
「海の水を一人で掬えるかを考えるんじゃない。君に届いた波だけを――確かに舟に乗せてやる。それが『導き手』でしょ」
その言葉に、リアンはしばらく黙っていた。
胸の奥が、まだ少し痛む。
「……俺が生きているうちに、どれだけの魂を導けるんだろう」
小さく呟いたその言葉には、重さがあった。
数でも功績でもない。
ただ、これまで見てきた無数の“届かない魂”の影が、彼の背にまとわりついていた。
サラは窓へ歩み寄り、留め金を外して夜風を入れた。
ひやりとした空気が、泣き腫らした部屋を撫でていく。
「数えはじめたら、きっと足が止まるわ。今日はひとつ。明日またひとつ。……それでいいの」
振り返り、リアンのそばに立つ。
「さっき君は“行こう”って言ったでしょう? あの子に向けた言葉は、君自身への言葉でもあるはずよ」
「……そうかもしれない」
リアンは微笑を浮かべ、右手を胸に戻した。
舟紋の鼓動が、ゆっくりと静まっていく。
「行こう、か……」
「ええ。眠りましょう。明日は出発でしょ?」
「ああ。修理も終わったし、もう準備はできてる」
サラは灯を指でつまみ、芯を短くした。
橙の揺れが壁を縮め、部屋は安らぐ闇に包まれていく。
「ねえ、リアン」
「ん?」
「“さよなら”に、慣れないで」
その言い方は冗談めいていたが、瞳は真剣だった。
「私は――待ってるから」
リアンは息を呑み、やがて小さく笑う。
「……ありがとう」
窓の外で、遠く犬が二度吠えた。
夜は深く、それでもどこか軽かった。
彼は外套を畳み直し、扉の鍵を確かめる。荷はもう整っている。
手の中の空白は、痛みではなく、灯りをともすための余白に変わりつつあった。
横になり、天井の木目を見上げる。
(偶然に見える必然……届く波だけでいい、か)
目を閉じる前、彼は小さく祈った。
――誰かの残り火が、次の朝にも光でありますように。
そして自分の舟が、明日も正しく進みますように。
やがて、部屋の息遣いは穏やかな寝息に変わった。
夜は静かに傾き、まだ見ぬ明日の方角へ、ひっそりと流れていく。
⸻
翌朝
目を覚ますと、部屋の片隅にあの小鳥の姿はなかった。
リアンは思わず身を起こし、周囲を見渡す。
「……いない」
窓辺にも、枕元にも、羽音ひとつ残っていない。
あまりに自然にいなくなったその不在が、かえって寂しさを際立たせていた。
サラはそんな彼を横目で見て、軽く笑う。
「ほら、起きなさい。お腹、空いたでしょ」
声はいつも通り。まるで昨夜のことが夢だったかのように穏やかだった。
「……うん」
リアンは小さく頷き、身支度を整えた。
胸の奥の空白は、まだ少し痛い。それでも、前を向ける気がした。
二人は町の通りへ出て、いつものパンの屋台へ向かう。
大きな窯から白い湯気が立ち上り、焼きたての香りが路地いっぱいに広がっている。
「おや、今日はあの子が見当たらないね」
包みを作りながら、女主人が首を傾げた。
リアンは一瞬言葉を失い、視線を落とす。
サラが代わりに軽く笑って答えた。
「ちょっと驚かせちゃってね。逃げちゃったの」
肩をすくめるような仕草。その一言に、余計な説明は要らなかった。
女主人はすぐに笑みを浮かべ、頷く。
「そうかい。でも、お腹が空けば、また戻ってくるだろうさ」
「そうね」
サラは自然な笑みで包みを受け取る。
リアンは横で小さく息を吸い、胸の奥にその言葉を刻み込んだ。
(……また、戻ってくる)
二人は屋台の脇に腰を下ろし、焼きたてのパンを分け合った。
湯気が立ち、外は香ばしく中は柔らかい。
噛むたびに熱が広がり、空っぽになった心を少しずつ満たしていく。
静かな朝食だったが、不思議と温かかった。
⸻
食後、修理場を訪れると、馬車の車輪は見事に直されていた。
「ほら、完璧だ」
職人が胸を張る。
リアンは深く礼をし、サラも安堵の吐息を漏らした。
荷を積み、手綱を握る。
「これで出発できるね」
「ええ。この町ともお別れね」
石畳を叩く車輪の音が、朝の喧噪と混じり合って遠ざかっていく。
振り返れば、果物を並べる声も、子どもたちの笑い声も、少しずつ小さくなっていった。
その上空を、一羽の鳥が舞っていた。
青空を切り裂くように翼を広げ、軽やかに風を受けて飛んでいく。
「……あの子かな」
リアンが呟くと、サラが小さく頷いた。
「そうね。もう、行くべき場所に向かったのよ」
リアンは目を細め、その影を見送った。
胸に残るのは別れの痛みではない。
確かに触れた温もりの余韻――その小さな灯火を抱きながら、彼は手綱を握り直す。
「行こう、サラ」
「ええ。次の場所へ」
馬車は土煙を上げ、朝の陽を受けて進んでいく。
街の屋根は遠ざかり、風の音だけが残る。
過ぎ去った町の面影と、導かれた魂の記憶を胸に抱きながら――
二人の旅路は、新たな一日を、静かに踏み出していった。




