第58話 『パンの湯気と羽音』
「……リアン」
耳に届いた声に、リアンはハッと目を開けた。
視界に映ったのは、心配そうに覗き込むサラの顔。頬にかかる銀の髪がふわりと揺れ、金の瞳が灯りのように彼を映している。
「うなされてたわ。大丈夫?」
彼女の指先がそっとリアンの頬に触れる。柔らかな温もりが、夢の残滓をなぞるように伝わってきた。
リアンは息を整え、かすかに笑みを作った。
「……少し、怖い夢を見ただけだ」
サラは眉を寄せ、真剣な眼差しを注ぎ込む。
「今日は休む? 無理しなくていいのよ」
「いや……大丈夫。むしろお腹がすいたな」
その言葉に、サラは一瞬きょとんとした後、ふっと唇を緩める。
「それ、私のセリフなんだけど」
リアンも小さく吹き出す。
わずかなやり取りが、張りつめていた空気を溶かしていく。
二人の間に、ようやく柔らかさが戻ってきた。
サラは軽く肩をすくめ、そっと手を差し出した。
「立てる? ……ほら」
リアンが頷くと、彼女はその手を取って軽く引き上げる。
「ここは朝も食事が出ないみたい……外の広場に屋台が並んでるはずよ。行ってみましょ」
「うん、行こうか」
そう言って彼の手をぐいっと引き、扉を開ける。
木の軋む音とともに冷たい外気が流れ込み、夢の余韻をさらっていった。
リアンは一拍遅れて立ち上がり、その背を追う。
廊下に響く二人の足音が、次第に静かな夜を押し分けていく。
――夢に残った影を振り払うように、彼は歩みを重ねていた。
宿を出ると、朝の広場にはすでに活気が満ちていた。
鳥たちのさえずりが屋根の上から降り注ぎ、行き交う人々の声と重なって響く。
子どもの笑い声、鉄鍋の油がはぜる音、果実を切る水音。
そして、どこかで笛の音が小さく鳴り、人々のざわめきに溶けていく。
色とりどりの布で飾られた屋台が並び、焼きたての香ばしい匂いや果実の甘酸っぱい香りが風に混じって漂ってきた。
サラはそんな喧噪の中で、子供のように目を輝かせていた。
「ねぇ、あれ見て!」
振り返るたび、金の瞳が朝陽を受けてきらりと光る。
嬉しそうに笑みを浮かべながら、次々と屋台へ視線を向けていく。
その様子は戦場で見せる冷たい表情とはまるで別人で、リアンはふと歩みを緩め、その横顔を眺めてしまう。
(……こうしてる時のサラは、本当に楽しそうだ)
やがてサラは、ひとつの屋台の前で立ち止まった。
その周りには、まるで匂いに誘われたように鳥たちが集まり、屋根や看板にとまって羽を震わせている。
リアンも視線をやると、焼きたてのパンがずらりと並んでいた。
こんがりと焼けた表面からは湯気が立ちのぼり、香ばしい香りが鼻をくすぐる。どれもこれも美味そうで、思わず腹が鳴りそうになる。
「ここにしましょ」
サラが振り返り、金の瞳を輝かせて告げる。
屋台の奥から現れたのは、ふっくらとした体格の女主人だった。
白い頭巾の下から覗く顔に、気さくな笑みを浮かべている。
「いらっしゃい。うちのパンは今朝焼いたばかりでね、どれも出来たてだよ」
彼女はリアンたちを見て首をかしげる。
「見ない顔だね。旅の人かい?」
リアンは軽く頷いた。
「……そんなところです」
「なら、旅用に保存のきくパンもあるよ。日持ちするし、噛むほど味が出る。干し肉ばっかりじゃ飽きるだろ?」
ちょうど図星を刺され、リアンは少し苦笑した。
「……それも、もらおうかな」
「まいど!」女主人は嬉しそうに声を上げ、袋を手に取った。
一方のサラは、目の前に並ぶパンを見比べながら、なかなか決められずにいる。
指先でパンの表面をそっと押し、湯気に目を細めながら呟いた。
「どれにしようかしら……全部食べたいくらいね」
リアンはその横顔を見て、つい笑みをこぼす。
「戦場じゃ見られない悩みだな」
「黙って食べなさい」
軽く睨みながらも、サラの頬がわずかに緩む。
サラはしばらく迷った末に、いくつかのパンを指差した。
「これと……それから、これも」
女主人が手際よく袋に詰めて差し出すと、サラはそのうちのひとつを取り出し、振り返ってリアンに押しつけるように差し出した。
「はい、これ。あんたの分」
「……ありがと」
受け取った瞬間、焼きたての香ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐり、リアンの腹の奥がぐうと鳴る。
「……今の、聞こえた?」
「うるさい」リアンは顔を赤らめ、そっぽを向いた。
サラは自分の分をちぎって一口かじる。
ぱり、と心地よい音。中から湯気が立ちのぼり、温かな小麦の甘みが口いっぱいに広がる。
「……ん」
頬がふっと緩み、目尻が柔らかく下がる。
戦場で見せる冷たい光を宿した顔ではなく、ただ「美味しい」と心から喜んでいる少女の表情だった。
その姿を見て、リアンの胸の奥にも不思議な温もりが広がる。
(……こうして笑っている方が、ずっといい)
――けれど、あの夢の冷たさがまだ胸の奥に微かに残っていた。
だが次の瞬間、サラの口元からパンくずがぽろりと零れ落ちた。
乾いた石畳に落ちたそれに、近くで羽音を立てていた鳥たちが一斉に群がる。
「……なるほど。これを狙ってたのか」
リアンは小さく感心しながら群れを眺め、ふとその中に目をとめた。
ひときわ小柄な鳥――ほかの群れとは明らかに違う羽色をしており、光を浴びてかすかにきらめいて見える。
「珍しい鳥がいるな……」
彼の呟きに、サラと女主人も視線を向けた。
「あぁ、あれね」女主人が軽く指を伸ばす。
「この町に住みついてるみたいで、もうずっと前から見かけるんだよ。町をぐるぐる回っては、何かを探してるみたいでね。お腹が空くと、決まってこうしてここに来るのさ」
リアンは興味深そうにその小鳥を見つめ、目を細める。
「……そうなんだ」
女主人は少し楽しそうに声を弾ませた。
「しかも、あの子は喋るのよ。『言葉を教えて』ってね。最初は驚いたけど、覚えた言葉はちゃんと口にするの。愛嬌があって、可愛いでしょ?」
「へぇ……」リアンが感心して頷くと、隣でパンをかじっていたサラが口の端を上げて笑った。
「インコよ、それ」
「インコ?」リアンが首を傾げる。
サラは当然といった顔で頷いた。
「そうよ。インコ。でも、この辺りでは珍しいわね」
パンをかじりながら、どこか誇らしげに言葉を続ける。
「他にも喋る鳥はいるのよ。旅の途中で何度か見たわ。訓練すれば挨拶ぐらいは覚えるし、歌だって真似する子もいる」
「へぇ、そういうのもいるんだねぇ」女主人は感心したように声を上げる。
そして少し呆れたように肩をすくめて言った。
「なるほど、こりゃ貴族様が欲しがるわけだ」
「貴族?」リアンが反応する。
女主人は手を拭きながら声を落とす。
「なんでも鳥好きの貴族様がいてね、あの小鳥を高値で買うと言ってるらしいんだよ。だから冒険者が狙ってる。でも――条件があるのさ」
「条件?」
「傷つけずに捕まえること。……それが難しいんだろうね。だから、まだ誰も成功してないのさ」
リアンは視線をパンに落とし、それから女主人に向き直った。
「……あなたなら、パンを使って捕まえられるんじゃ?」
女主人は目を丸くしてから、ぷいと顔をそらした。
「あんな可愛い子を捕まえるなんてできないよ。それに、うちは貴族なんぞに好かれなくたっていいのさ。あの子は客寄せにもなるんだよ」
その言葉には、どこか庶民らしい矜持と温かさが滲んでいた。
リアンが女主人と言葉を交わしていると、不意に彼女が目を細めて呟いた。
「……あら、来たよ」
その視線の先へと自然に顔を向ける。
広場の賑わいの中、屋台の合間を縫うようにして歩いてくるのは――昨日見かけた冒険者だった。
鎧の隙間には土埃がこびりつき、剣帯からは刃こぼれした剣の鞘が覗く。
場に馴染まぬ鋭い気配を纏いながら、彼は人混みをかき分け、真っすぐにこちらへ歩を進めていた。
「……っ」
サラはすぐに気づいた。
次の瞬間、彼女の周囲に銀のツバメと赤い鳥が現れ、羽音を立てて舞い踊る。
まるで戦場で剣を抜くかのような、自然でいて鋭利な反応だった。
リアンは袖をつかみ、「――待って」と小さく囁く。
「サラ!」
それでも声を上げずにはいられなかった。
だが冒険者の目線は、こちらではなく――地面に群がる鳥たち、そしてその中に混じる一羽の小さな光を帯びた鳥に注がれていた。
どうやら、こちらに気づいているわけではない。
リアンは息を詰め、無意識にサラの袖を引いた。
風が止み、羽ばたきの音だけが一瞬、世界を切り取る。
舞い散る羽音の緊張感と、冒険者の視線の冷ややかさが、広場の喧騒の中で奇妙に交錯していた。




