第48話 「星映(せいえい)の湖へ」
朝の陽が穏やかに差し始めた頃。
リアンとサラは街の門をくぐり、旅路の初日を迎えていた。
夜明けの光が石畳を照らし、空にはまだ朝靄の名残が薄くかかっている。
通りの先には、紋章教会が用意した旅用の馬車が一台、静かに待機していた。
灰色の帆布に包まれた堅牢な造り。
補強された車輪は段差にも強く、旅用としては申し分ない。
――だが、それ以上に目を引くのは、帆布の側面に描かれた**《紋章教会の正紋》**だった。
銀の輪郭が朝の光を受けて鈍く輝く。
それはまるで“威光そのもの”が具現化しているようだった。
リアンが足を止めた瞬間、隣からため息が落ちる。
「……まーた、堂々としてるわね。目立ちたがりにもほどがあるわ」
サラだった。
腕を組み、眉間に皺を寄せながら馬車を見上げている。
「目立たせたくて作ってるとしか思えないわ。
こんなの、“狙ってください”って看板掲げてるようなもんでしょ」
「……教会的には、威光を示す意味もあるんだろうけど」
リアンが曖昧に返すと、サラのじとっとした視線が突き刺さる。
「……その顔。絶対“やっぱり”って思ってるでしょ?」
「いや、別に……」
「別にって顔じゃない。ほら、眉、下がってる」
「え、そう?」
「そう。導き手、顔に出すぎ」
「……ごめん」
リアンが視線を逸らし、くるりと背を向けた。
そして数歩歩いて、ちらと振り返る。
「……こっちにしよう。あっちはやめよう」
サラが視線を向けると、彼の指先には別の馬車があった。
古びた木枠にくすんだ帆布――どこにでもあるような、目立たない造り。
「最初からそう言いなさいよ」
サラが鼻を鳴らす。
「はいはい……」
リアンは苦笑しながら荷物を積み込み、サラとともに乗り込んだ。
革張りの座面は少し軋み、車輪はきしむ音を立てる。
けれど、不思議とその揺れが心地よい。
街の門を抜ける風が、ふたりの背を押した。
空は、少しずつ高くなっていく。
こうして――リアンとサラの旅は、静かに、確かに動き出した。
馬車はゆっくりと街道を進み始める。
手綱を握るリアンの横で、サラは窓の外をぼんやりと眺めていた。
前夜までの喧騒が嘘のように、朝の空気は静かだった。
山並みの向こうに霞む光が、淡く世界を照らしていく。
「……けっこう、様になってるじゃない?」
「何が?」
「馬車の扱い。案外うまいのね」
リアンは苦笑して手綱を引く。
「導き手って、移動が多いから。訓練だけは、ね」
「ふぅん……。でも正解だったわ、教会の馬車にしなくて。
あんなの乗ってたら、ずっと背中がこわばってたわ」
「それは、俺も同感かな」
ふたりの笑い声が、朝靄の中に溶けていく。
しばらく走ったあと、サラが鞄から布包みを取り出した。
中から干し肉を一枚、器用にかじる。
「はぁー……やっぱり動くとお腹空くわ」
「まだ出発して半刻も経ってないけど」
「なによ、食べちゃ悪い?」
「いや……早いなと思って」
「燃費がいいって言ってよ。ほら、食べる?」
「いや、俺は――」
「ほらほら、食べなさいって」
サラは強引に干し肉を突き出す。
リアンは苦笑しながら受け取り、一口かじった。
「……しょっぱい」
「そりゃそうよ。保存食だもの」
サラは肩をすくめ、もう一枚を口に放り込んだ。
車輪の音がこつこつと響く。
道端の草が朝風に揺れ、光が葉先をなぞる。
「――そういえば」
干し肉を噛みながら、サラが思い出したように口を開く。
「手紙の中身、まだ見てなかったわね?」
「あ……そうだった」
リアンは軽く肩を落とし、上着の内ポケットに手を差し入れる。
教会の使者から受け取った封書は、まだきれいなままだ。
「目的地と途中の依頼先が記されてるって言ってたけど……」
封を切る。
紙が小さく破れる音が、馬車の中に静かに響いた。
中から出てきたのは、折りたたまれた地図と一通の手紙。
羊皮紙に描かれた筆致は丁寧で、現在地から王都までの道のり、そして赤い印がいくつも記されている。
「……ここだな、最初の依頼地」
リアンは地図を指でなぞりながら、手紙を読み上げた。
『導き手様
第一の依頼地はフォルニエ辺境伯領――
かつて観光地として栄えた“星映の湖”周辺。
現在は封鎖中ですが、周辺に不穏な魂の気配が観測されています。
教会より調査と浄化を依頼いたします。』
「星映の湖……か」
リアンがつぶやくと、サラが顔を向けた。
「……あら、そこ行くの?」
「知ってるの?」
「うん。昔、護衛任務でね。夜になると湖面に星が映るの。
風が止んだ夜なんか、空がそのまま落ちてきたみたいに見えるのよ」
「……そんなに綺麗なんだ」
リアンが微笑むと、サラは少し遠い目をした。
「ええ。あの頃は……そうね、風の音まで静かだった」
リアンは地図を見つめたまま、指で小さな印をなぞる。
「……近くに村もあるみたいだ」
「ああ、それ。昔の知り合いが開拓した村よ。
星映の湖を気に入って、住み着いちゃったの」
「へぇ……」
「しばらく会ってないけど……元気なら、顔ぐらいは見ておきたいかな」
サラの声は穏やかで、それでいて少しだけ寂しげだった。
窓の外を流れる景色に、彼女の瞳が淡く揺れる。
「俺は……そういう景色、あまり知らないな」
リアンがぽつりと呟く。
「魂の気配とか、素材の反応ばかり見てるから。
“綺麗”って思う余裕、あんまりなくて」
「ふふ。らしいわね、導き手さん」
サラが笑う。
その笑みには、少しだけ優しさと、ほんの少しの祈りが混じっていた。
「……ま、せっかくだから楽しみましょう。ね?」
「そうだね。行こう、星映の湖へ」
「うん。きっと、いい風が吹くわ」
馬車はゆっくりと進む。
揺れる車輪の音が、ふたりの会話の余韻を引き取っていく。
朝靄はまだ山の裾を包み、その向こうにある“星映の湖”は、まだ遥か彼方。
リアンは手紙をたたみ、空を見上げた。
その瞳の奥には、旅の始まりを映す淡い光が宿っていた。
旅は――ようやく、動き出したばかりだった。




