第43話 視線の夜
闘技場の喧騒が落ち着いたころ。
街では、夜の祭りが再開されていた。遠くで笑い声、鈴の音、屋台の湯気。
喧噪を離れ、リアンとサラは闘技場の裏門から通りへ出る。
かつて歓声と拍手が渦巻いていた場所は、今や静まり返り、
かすかなざわめきと、冷たい夜風だけが残っていた。
「……少し、寒いな」
リアンが外套の襟を立てる。
「熱が落ちたからでしょ」
サラは歩幅を緩めず、前だけを見て答える。
「身体も、頭も。――いいことだよ。冷めた方が、ちゃんと考えられる」
「さっきは……ありがとう」
リアンが小さく頭を下げる。
「たぶん――」
「うん。危なかった」
サラはあっさりと言う。
「でも生きてる。だから次に使いなさい。迷っても、守るために」
「……うん」
通りに満ちる空気には、まだ不安の余韻が色濃い。
遠くの建物で修復用の紋章光がちらちらと灯り、淡く明滅している。
火花の名残のような、街の心臓の鼓動のような、細かな明かり。
「ねぇ、サラ」
リアンが足を緩める。
「俺、今日――間違えた?」
サラは立ち止まらない。
ただ、少しだけ横顔を向ける。
「間違えたわよ。派手に」
きっぱり言って、そして笑った。
「でも、最後に掴み直した。だから及第点」
「……厳しい」
「甘やかすのは、私の役目じゃないから」
サラは夜空を仰ぎ見る。
星が風に滲む。祭りの音が遠くで揺れる。
「さ、宿に戻る。叱られるのは――」
「これから、だよね」
「わかってるじゃない」
ふたりの足音が石畳に溶け、夜の街へと消えていった。
その背を、修復の光と屋台の灯が、静かに見送っていた。
サラは大きく伸びをして、くたびれたように肩を回し、
そしてふと、隣を歩くリアンの顔を覗き込んだ。
「……ま、とりあえず」
言いながら、彼女は自分の頬を指で軽くとんとんと叩く。
「治療も済んだし、お腹減った。何か、食べに行こっか」
その口調は、いつも通り――まるで何事もなかったかのような気楽さだった。
リアンは目を瞬かせ、少し間を置いてから、ふっと力の抜けたように笑う。
「……うん。俺も、ちょうどそう思ってた」
サラは満足げに頷くと、くるりと踵を返して先を歩き出した。
軽い足取り。軽やかな髪の揺れ。
「じゃ、ほら。早く! 夜市、再開されてるって聞いたし!」
振り返ってそう告げる彼女の笑顔は、いつもと何も変わらなかった。
けれど――
(……なにか、変だ)
リアンはその背中を見つめながら、胸の奥で、かすかな違和感を覚えていた。
サラの表情も、声も、歩き方も、まるで今まで通りだ。
明るくて、自由で、風のような存在――
……なのに、通りすがる人々の視線だけが、違っていた。
彼女を見る目は、どこか遠巻きで、怯えたようで、でも目を逸らせない。
ほんの一瞬だけ注がれて、すぐに逸らされる視線。
けれどそのわずかな一瞥に宿るのは、驚き、畏れ、そして――恐怖。
(……そうか。あの戦いを、見てたんだ)
観客席を吹き飛ばし、敵を圧倒し、風と炎で全てを封じた――
“人の領域”を超えた光景。
それを彼らは、目の前で、現実として見たのだ。
サラが立ち止まり、夜市の屋台通りを指さす。
「ほら見て、あれおいしそー。あんた、ああいうの好きでしょ?」
その声には、変わらぬ温度があった。
リアンは意識を引き戻され、すぐに微笑んで頷く。
「うん。……ああいうの、久しぶり」
「でしょ? ああいうの食べると、だいたい幸せになるのよ」
「そんな理由?」
「理由なんて、そんなもんでいいの」
二人はそのまま、連なる屋台の並ぶ通りへと足を踏み入れる。
香ばしい匂いが漂い、鉄板の音、油のはねる音、
店主のかけ声が、ようやく戻ってきた日常を彩っていた。
串焼き、団子、焼き菓子。
その一つ一つを買っては頬張り、食べ歩きをしながら笑い合う。
それは、どこにでもある――戦いの跡に戻る、平凡な時間。
けれど。
通りの空気は、どこか歪んでいた。
明るい灯りと祭囃子の中で、二人の周囲だけが静かだった。
すれ違う人々は誰も声をかけない。
むしろ、足早に通り過ぎる者もいた。
目を合わせないようにする者。
中には、振り返ってサラの背を見送る者もいた。
ほんのわずかの視線に込められた感情は――怯え、畏怖、そして、畏敬。
まるで、触れてはいけない“何か”を見るような目。
サラは、そのすべてに気づいていた。
それでも、何も言わなかった。
ただ、いつも通りに話し、いつも通りに笑って、
隣を歩くリアンにだけ、変わらない顔を見せていた。
やがて、人気の少ない木陰のベンチに腰を下ろす。
手には串焼きと、温かい飲み物の紙カップ。
夜の風が通り過ぎ、街のざわめきが遠くに霞む。
「……やっぱ、外で食べるのって、いいねぇ」
サラが、くたりと背もたれに寄りかかりながら呟く。
「うん。……戦いの後って感じ、しないくらい」
「そりゃそうよ。もう祭り、再開されてんだから」
サラは串の最後のひとつを口に運び、
もぐもぐと咀嚼しながら満足げに伸びをした。
「……ふぅ。やっぱ肉だね。戦った後は肉」
リアンは笑って、「たしかに」と頷く。
「でも……サラがこうして笑ってると、少し安心する」
「何よそれ。私いつも笑ってるでしょ?」
「うん。でも――今日は少し違って見える」
サラは一瞬、目を伏せた。
けれど、すぐにいつもの調子で笑みを返す。
「そっか。……なら、そういうことにしとこっか」
そして、ふとリアンに向き直る。
「……で、さ。あんた」
「うん?」
「今度はちゃんと、使いなよ」
それは、どこまでも優しい声だった。
けれど――確かに、重みを持った言葉でもあった。
リアンは一瞬だけ目を見開き、ゆっくりと頷く。
「……うん。わかった」
夜の空に、灯火の光がゆらめいている。
ざわめきと祭囃子。遠くで笑い声が弾ける音。
ふたりは、その喧騒の外側で、ただ並んで座っていた。
――まるで、何事もなかったかのように。
けれど確かに、何かが変わっていた。
サラに向けられる人々の視線も。
リアンの中に芽生えた、決意の重みも。
それでも、日常は続いていく。
風は吹き、灯は揺れ、夜は明ける。
そんなふうに――街の祭りは、夜更けまで、賑わいを取り戻していた。
リアンは考えていた。
灯りの落ちた部屋の中、外の風がカーテンを揺らしている。
(……俺、ちゃんとできてたかな)
サラに教わったこと。
判断して、動いて、守ること。
それを思い返そうとするたび、脳裏を過ぎるのは――闘技場で交差した“視線”だった。
値踏みするような目。
「守る」と言いながら、自分を前に立たせた者たち。
危険を押しつけ、それを当然と思う目。
(……あのとき、俺は“導き手”として見られてたんじゃない。……都合のいい盾だった)
喉の奥が詰まり、呼吸が重くなる。
人は守られるために近づき、力を借り、利用する。
守るべき存在ではなく、“使える存在”として測られていた。
胸の奥が、ひどく冷たかった。
風の音が、遠くで鳴っていた。
その響きが、どこか寂しい。
ふと、思い出す――あのざわめき。
戦いを終え、闘技場を離れたあと。背中に感じた、異様な空気。
恐れとも、敬意ともつかない。
けれど、その視線の先にあったのは――
(……サラに、向けられていた)
観客も、参加者も、誰もが口を閉ざし、ただ遠巻きに彼女を見ていた。
まるで、触れてはいけないものを見るように。
畏れと敬意と、わずかな恐怖が混じった“まなざし”。
そして誰も――彼女に声をかけようとしなかった。
(……サラは、そういう存在なんだ)
圧倒的な力。
理解を超える速度。
あらゆる脅威を切り伏せる姿。
守ってくれたのに、味方だったのに――人は距離を置いた。
(……そんなの、ないよ)
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
(……俺は、あんなふうには、なりたくない)
でも――サラの力があったからこそ、誰もが守られた。
その事実は、否定できなかった。
(……それでも、どうして人は、ああも簡単に恐れるんだ?)
(違いすぎるから? 理解できないから? ……そんな理由で、背を向けるのか?)
リアンは、考えるのをやめようとした。
胸の奥で渦巻くものに、形を与えたくなかった。
(……だめだ。ほかのことを考えよう)
天井を見上げる。
そこに何もないことが、少しだけ救いに感じた。
(そういえば……あの夢、最近見てないな)
燃え盛る炎の中に立つ、赤髪の少女。
幼い頃から、何度も繰り返し見てきた夢。
焦げた空気の中、遠くからこちらを見つめていた少女。
何も語らず、ただ――立っていた。
その夢が、いつの間にか途絶えていた。
(サラと出会ってから……いや。あの“赤い女”と出会ってから、だ)
烈火のような瞳を持つ、あの女。
魂の底を掴まれたような感覚。
無関係とは思えなかった。
(……考えすぎ、だ)
そう自分に言い聞かせて、深く息を吐く。
胸の鼓動がゆっくりと沈んでいく。
(きっと、たまたま……だ)
繰り返す言葉は、祈りに似ていた。
意識がゆるやかに沈んでいく。
――そして、その夜。
リアンは夢を見た。
“視線”の夢。
あたりは、何もない空間だった。
光もなく、音もなく。
そこには、ただ――“目”だけがあった。
目。目。目。瞳。目。
無数の視線が、あらゆる方向からリアンに突き刺さっていた。
形も大きさも違うそれらは、ただ黙って睨んでいた。
笑わず、叫ばず、ただ見ていた。
そこにあったのは――
妬み。憎しみ。恐怖。蔑み。
そして、歪んだ畏敬。
人の奥底に潜む“得体の知れない感情”そのものだった。
まるで刃のように突き刺さり、逃げられない。
目を逸らせない。息ができない。
痛い。苦しい。冷たい。
その中心に――一つの影があった。
ツバメを抱いた、一羽の鳥。
小さく、細く、今にも壊れそうな姿。
無数の視線を浴びるたびに、羽が砕け、首が垂れ、くちばしが欠け、瞳が濁っていく。
守ろうとしたものだったのかもしれない。
愛されるべきものだったのかもしれない。
けれど――ただ、静かに壊れていった。
音もなく、悲鳴もなく。
無数の“目”に見られながら。
――そして、リアンは目を覚ました。
夜明け前の淡い光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
息を吐いた胸の奥が、妙に痛かった。
布団の中で、手が震えていた。
頬を濡らす感触に気づき、そっと触れる。
(……なんで……泣いてる……?)
無意識に流れた涙が、枕を濡らしていた。
冷たくて、温かくて――
理由のわからない痛みだけが、リアンの中に残っていた。




