第24話 《背後の焔》
リアンの胸に、針のような痛みが走った。
「お前が弱いから、こうなった。――そうだろ?」
責める声ではなかった。
ただ“事実”を告げるように、淡々と。
吐き捨てるように。
リアンは、唇を噛んだ。
けれど、言い返す言葉が出てこなかった。
出せなかった。
否定しようにも、自分の中の声が――その通りだ、と囁いていた。
あの時、もっと力があれば。
もっと速く、もっと強く、動けていれば――。
「ったく……」
ガリムが息を吐く。
その声には、呆れと、どこかに同情にも似た嘲りが混ざっていた。
乱暴に、リアンの身体を掴み上げる。
ぐったりとした体は、まるで人形のように宙に引き上げられた。
「さっさと“紋章”だけ持ち帰るか。……俺の身体もそろそろ、限界だ」
低く漏れた声に、血の匂いが混じる。
ガリムの胸に刻まれた《再肉の紋》――かすかに灯る光は、もはや消えかけていた。
限界なのは、リアンではなく、彼の方だったのかもしれない。
それでもなお、ガリムは立ち、喋り、動いていた。
だが、リアンにはそれすら現実味を帯びて見えなかった。
引き上げられた身体がふわりと浮き、
傾いた視界の端で――サラの身体が遠ざかっていく。
銀の髪が、血に濡れてなお、風に揺れていた。
――置いていかないでくれ。
声にすらならない願いが、胸の奥で渦を巻く。
だが――
「……なんだよ」
耳のすぐそばで、ガリムの呟きが落ちた。
苛立ちと困惑の入り混じった、濁った声。
「何も反応しねぇのか、お前は……!」
男の顔が歪む。
怒りと焦りと、見えない何かに突き動かされるように。
そして――
リアンの身体は、宙を舞った。
「――ッ!」
投げ捨てられた身体が岩に叩きつけられる。
鈍い衝撃。骨が軋む。世界が揺れる。
視界が白く弾け、口の中に血の味が広がる。
転がる身体。砂の感触。呼吸が乱れる。
それでも――彼の瞳だけは、動いていた。
遠く、地面に横たわる彼女のもとへ。
揺れる銀髪。
風に溶ける、最後の残り火。
それだけは、朦朧とした意識の中でも、焼きついたまま離れなかった。
「もういい……死ね」
低く唸るような声。
地を踏み鳴らす足音が、ゆっくりと近づく。
霧の中で、巨大な影が動いた。
血を吸い、幾度も命を刈り取ってきた、あの戦斧。
それが、リアンの真上で振り上げられる――
――斧は、空を切った。
ガリムの瞳が、一瞬だけ驚きに揺れる。
「……あ?」
力を込めたはずの右腕に、感覚がなかった。
違和感に眉をひそめ、自分の腕を見下ろす。
そこには――“右前腕”が、なかった。
斧を握っていた手首から先が、綺麗に消えている。
切断面から血が噴き出し、地面を紅く染めた。
「な……ッ!」
呻きが漏れる。
痛みに顔を歪めるよりも早く、気配が――背後に立っていた。
砂煙の向こう。
そこに“誰か”がいた。
甲冑のきしみもなく、ただ静かに。
まるでそこに在ることが必然であるかのように。
――騎士だった。
銀と黒の鎧をまとい、長剣を手にした姿。
リアンがかつて紋章を通して“送り還した”はずの存在。
すでに消え去ったはずの――魂の残響。
その騎士が、霧を裂くようにして現れていた。
燃えるような眼差しで、無言のまま、ガリムを見据える。
「貴様……!」
ガリムが吠える。
だが、騎士は応えない。
ただ、剣が動いた。
一閃。
銀光が走り、ガリムの肩口から胴を裂いた。
血が舞う。風が走る。
ガリムの巨体が、呻きと共にのけぞる。
しかし、騎士は止まらない。
連撃。剣閃。
速く、鋭く、容赦なく。
音すら追いつけぬ速度で繰り出される斬撃に、
ガリムは防ぐこともできず、ただ受けるしかなかった。
「く……そがっ……!」
失った腕では斧を支えられない。
残った手で体勢を整えようとするも、次の一閃でそれすら斬られる。
銀の軌跡が走る。
風そのものが形を得たような斬線が、ガリムの膝を断ち切った。
鈍い音が響き、巨体が崩れる。
だが、その瞬間――
騎士の剣の軌跡に、ほんの一拍の“ゆらぎ”が走った。
まるで舞の拍が乱れたような、一瞬の空白。
その“間”を断ち切るように、
次の斬撃が、まったく異なる気配をまとって現れた。
背中に、熱。
呼吸が、一瞬で詰まる。
「……っ!」
遅れて、炎が爆ぜた。
背後から、紅蓮の斬光が走る。
焼ける音と共に、背骨を貫くような熱が走り抜けた。
振り返る。
そこに――サラがいた。
血に濡れた胸元。
かすかに揺れる銀の髪。
それでもその瞳は、確かに生きていた。
剣先が、まだ炎をまとっている。
「……あんたの背中、やっと斬れた」
息を荒げながらも、サラは笑った。
その声音には、恐れも悲鳴もなかった。
ただ、静かな誇り。
「“導き手”に手を出すなんて――百年早いのよ」
ガリムの目が大きく見開かれる。
膝が崩れ、巨体が地に落ちた。
炎の剣を引き抜き、サラはその場に立ち尽くす。
霧が晴れ、騎士の幻がゆっくりと溶けて消える。
残されたのは――風と、燃え尽きる火の匂い。
リアンはただ、その光景を見つめていた。
血と灰の中で、確かに生きて立つ彼女を。
静寂が――訪れた。
風が止み、霧の向こうの世界が息を潜める。
炎の残滓がゆらゆらと揺れ、焦げた空気だけが漂っていた。
リアンは、まだ動けなかった。
血の匂いと、焼けた石の熱が肌に残る。
立ち尽くすサラの背を見つめながら、
胸の奥で何かがゆっくりと軋む音がした。
――終わった。
そう思った。
だが、その“終わり”は、ほんの一瞬の錯覚だった。
――ざぁ……。
霧の奥で、空気が揺れた。
音もなく、淡い赤が滲む。
燃え残った灰の中に、ひとつの影が現れる。
ガリムの傍らに、赤い髪の女が立っていた。
血のように鮮やかな髪が、霧の白に映えて揺れる。
その瞳は――夜明け前の光を閉じ込めたように淡く、冷たかった。
サラが息を呑む。
リアンは本能的に、剣の柄へ手を伸ばしていた。
だが、女は何の敵意も見せず、
ただ静かに、指を――リアンへと向けた。
「……私は、あなたを求めている」
言葉は、まるで霧の中に落ちた雫のように静かだった。
だが、その響きが胸の奥に刺さった瞬間、
リアンの紋章が――淡く脈打った。
(……なん、だ……?)
サラが一歩踏み出す。
だが、女はそれを見て、柔らかく微笑んだ。
「今日は……去りましょう」
その声には、
まるでこの場のすべてを“見透かしている”ような響きがあった。
彼女が右手を軽く振ると、
風が逆巻き、霧が渦を描く。
――その中に、ガリムの姿があった。
倒れ伏していたはずの身体が、血を引きずりながらゆっくりと立ち上がる。
瞳は焦点を失い、ただ“彼女”に従うように動いていた。
「……ガリムッ!」
サラの叫びが届くよりも早く、霧が一気に広がる。
赤い髪が風にほどけ、
女と巨影は、光のように溶けて――消えた。
その刹那。
霧の裂け目に、女の背中がわずかに映った。
薄衣の背越しに、淡い光がゆらめく。
それは、服の下から透けて浮かび上がる――“紋”だった。
炎のように揺らめく、不死鳥の意匠。
だがその形は欠けていた。
翼の片方が崩れ、光が途切れている。
まるで、何かを“奪われた”残り火のように。
その不完全な紋が、
闇と霧の狭間でかすかに脈打ち、
次の瞬間には――完全に姿を消した。
――すべてが、嘘のように。
残されたのは、沈黙だけ。
焔の名残が音もなく落ち、
サラの炎が完全に消えた瞬間、
世界はようやく“夜”を取り戻した。
リアンは、ただ立ち尽くしていた。
あの赤髪の女の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
――「私は、あなたを求めている。」
その声が、まるで運命そのものの呼び声のように思えた。




