第23話 『祈火の果て』
霧の中心――前に出たのはサラだった。
「リアン、下がって」
その掌に紋が浮かぶ。
燃え立つ魔炎が霧を染め、その周囲を二羽の鳥が戯れるように旋回した。
銀のツバメ(風)と、紅蓮の火の鳥(炎)。
相反しながらも、幼い兄妹のように互いを追う。
それは誇示ではなく――“守る者”としての祈りの残滓。
――風が止み、霧が一瞬だけ凪いだ。
嵐の前の静けさ。
「ガリム……来い!」
サラの叫びと同時に、巨躯の男が戦斧を担ぎ上げた。
刃が唸り、轟音が通路を震わせる。
サラは紙一重で躱し、逆手に抜いた魔炎の剣で側面を裂く。
爆ぜる火花、焼ける霧、うねる熱――炎と鋼が、空間を塗り替えていく。
「その火で多くを焼いたな」
ガリムが嗤う。「だが今は俺を止められん」
「私はリアンの守り手。――通さない」
剣と斧が衝突し、耳を裂く金属音が響いた。
石畳がひび割れ、霧が渦を巻く。
互いの気配が、まるで獣のように絡み合う。
間合いを切る二人。
「いい目だ、サラ=レイヴェル。“死を運ぶ鳥”が導き手のために剣を振るうとは」
「過去の名で呼ばれても、私の意志は揺がない」
咆哮。――ガリムの大斧が地を裂く。
サラは跳躍し、着地と同時に一閃。
「はッ!」
風すら焦がす炎刃が、ガリムの頬を掠める。
焦げた肉がうねり、内側から再び盛り上がって塞がった。
――《再肉の紋》。
その再生は異様な早さだった。
(……やっぱり、あの頃とは違う)
炎の残光が尾を引く。サラは連撃で畳みかけた。
残像が残るほどの速さ。
それでも、ガリムは一歩退くのみ。
「返してやるよ」
低く笑い、戦斧を投げ放つ。
空を裂き、鋼が唸る。
サラは剣を構え、火花が爆ぜる衝撃を受け止めた。
瞬間――風が逆巻く。
投げた斧が空を裂き、軌道を反転。主の手へ戻る。
「……戻る斧……?」
「俺の武器は俺の一部だ。離れても、切り離されん」
「なら――燃やし尽くすだけよ」
再び炎が高鳴る。火と鉄が交差し、通路が赤く染まった。
サラは呼吸を整え、一歩踏み込む。
「……忘れたの? 今まで一度だって、あなたは私に勝てなかった」
その瞬間、空気が変わる。
剣の炎が再び宿り、烈火のように閃いた。
踏み込み――連閃。
鋭い火刃が肩を裂き、腹を穿ち、胸板を焦がす。
再生が追いつかない。
巨体が、膝をついた。
「……強く、なっていたか……」
ガリムの声がかすれる。苦痛の中に、微かな懐かしさが滲んだ。
その瞬間、風と炎が震える。
彼の背後に、銀と紅の二つの影。
ツバメが旋回し、火の鳥が後をなぞる。
突風が巻き上がり、紅が銀に混じる。
――炎が爆ぜ、風刃が灼熱の螺旋へと変わった。
「……まだ、立つの?」
烈火に揺らぐ影。
サラは剣先を下げ、静かに告げた。
「もうやめなさい。今なら見逃す」
「ありがたい申し出だ」
血を滲ませながら笑う。
だがその手は、斧の柄を握り直していた。
「だが俺は止まれんのだよ、サラ」
斧が振り抜かれた。
――空中で、三つに裂ける。
一つは正面、二つ目は背面。
そして三つ目は――岩陰のリアンへ。
「……リアン!!」
灰の瞳が見開かれる。
紋章が光り、風の壁が展開する――
その瞬間、世界が闇に飲まれた。
轟音、圧迫、耳鳴り。
ぴたり、ぽたり。
頬を伝う温かい滴り。
目を開ける。
すぐ目の前、サラがいた。
しゃがみ込み、穏やかに微笑んでいる。
「……無事、だよね……?」
触れた指先は温かい――けれど、それは血の温度だった。
彼女の背には斧が突き刺さっていた。
深く、骨を断ち、命を削る傷。
血が、唇を濡らす。
「よかった……無事で……」
そう言って、サラは微笑のまま、リアンの胸に崩れ落ちた。
「サラ……?」
掠れた声。
リアンは震える両腕で、彼女を抱きとめる。
霧の中で、炎が音もなく消えていった。
赤の光が静かに揺らぎ、やがて黒に溶けていく。
風のツバメが一声も発せず、霧の彼方へ消える。
その足元に残ったのは、燃え尽きた何かの破片だけだった。
リアンは動けなかった。
呼吸の仕方さえ、わからなかった。
掌に残る温もりが、ただ現実を突きつけていた。
――風が、泣いているように聞こえた。
それは彼女の最後の声か、それともただの錯覚か。
彼の胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。
痛みではない。
空洞だ。
言葉にならない思考が、胸の奥で何度も何度も渦を巻く。
「……サラ……?」
声を出した瞬間、喉が焼けた。
彼女はもう、答えない。
霧が、ゆっくりと流れた。
風が再び通路を抜けていく。
その流れの中で、彼女の髪がかすかに揺れる。
まるで――「行け」と囁くように。
リアンはただ、見つめていた。
何もできず、何も言えず。
その場に、膝をついたまま。
そして――音が戻った。
「……なぁんだ、もう終わりかよ」
湿った土と血のにおいを混ぜた風を裂き、
低く、嗤うような声が――頭上から落ちてきた。
リアンの意識が、静かな闇の底からゆっくりと浮かび上がる。
重いまぶたを押し上げ、視界の焦点を探す。
霧がわずかに裂け、影が立つ。
最初は幻かと思った。
けれど――それは、動いた。
ガリム。
ぼろぼろの鎧を纏い、なおもその巨体を支えている。
裂けた胸当ての下からは、濃い血が滲み、滴り落ちる。
その全身は傷に覆われていたが――それでも、笑っていた。
「なかなか楽しめたよ。サラとのやりとりはな……」
血の泡を吐きながらも、その声には奇妙な満足が滲んでいた。
狂気と快楽のあいだに揺れるような笑み。
まるで戦いそのものが、生の証であるかのように。
呼吸は荒く、膝は震えている。
けれど、目の奥だけは――燃えるように、生きていた。
それは「生き残った者」の目ではない。
すべてを終えた者の目。
勝利を確信し、すでにその余韻を噛み締めている獣の光。
ガリムが、ゆっくりと歩み寄る。
血で滑る石畳に、重い足音が響くたび、空気が震える。
一歩。
また一歩。
そのたびに、影がリアンを覆い尽くしていく。
「……どうした?」
目の前に立つ巨影が、しゃがみ込む。
赤黒い血が滴り、リアンの頬に落ちた。
顔を上げることさえできず、リアンはそのまま見上げる。
視界のすべてが、ガリムの瞳に呑まれていった。
「守られるだけのお坊ちゃんが、言葉も返せねぇのか?」
その声は、乾いた嘲り。
だが、刃より鋭い。
吐き出される言葉一つ一つが、胸を切り裂いていく。
ガリムの顔がさらに近づく。
血に濡れた唇が歪み、耳元に息がかかるほどの距離。
そして、低く――囁いた。
「情けねぇな。……お前のせいで、“死を運ぶ鳥”が堕ちた。奪われる側はどうだ?」
――瞬間。
世界が、音を失った。
その言葉は雷鳴のように、リアンの胸の中心を貫いた。
耳鳴りが響き、心臓の鼓動だけが異様に大きく聞こえる。
血のにおい、土の冷たさ、震える手。
すべてが現実のまま、悪夢のように歪んでいく。
胸の奥で、何かが軋んだ。
呼吸が焼ける。
喉の奥に熱がこもり、目の奥が痛い。
それでも――涙は出なかった。
ただ、確かに聞こえた。
胸の奥で、かすかに鳴る音。
魂の底で、何かが呼応するような、鈍い鼓動。
それは、始まりの音だった。




