細川晴元十七歳
右が、世に言う「大物崩れ」髙国が捕らえられ、処刑されたのが大物(だいもつ、兵庫県尼崎市大物)だったために、こう呼ばれる。
当然、堺公方の意気は上がった。
だが、ここから、歴史はずいぶんな変調を来す。細川髙国を討ったのだ。義晴を擁する最大の実力者を除いたのだから、自分たちが担ぐ義維を将軍にすればいい。
だが、細川晴元は、それを選ばなかった。
彼は、細川京兆家を継ぐ段階で満足し、義晴と和睦して、京兆家の家督と管領の座を手に入れようとする。
三好元長はこれに猛反発、両者の間にまた溝ができてしまう。
晴元は、川勝寺口の戦い(一五二八)の時点では、細川髙国方六角定頼と和睦しようとする元長を責めていた。それが、親の仇、澄元を討った髙国を倒した時点で、あとはなんでもいいとばかりに足利義晴と和睦しようとする。
このあたりの紆余曲折の複雑さが、このタームが人気なく、室町時代がグダグダと言われる由縁だろう。
そこでひょうすべ史観では、蒲生対い鶴御所と、六角定頼という第三局を設定する。
定頼は、川勝寺口の戦いの前哨戦、髙国と義晴が近江に逃れることになった桂川原の戦い(一五二七)の時点から、晴元との縁談を進め、髙国から晴元へ鞍替えを図っていた。ちなみに、足利義維は母親は阿波細川氏娘、日野氏とのつながりはない。
川勝寺口の戦いの時点では、晴元は満十四歳
大物崩れの時点では、満十七歳
なにやら、現実が見え、妥協を探りそうな年齢ではある。前に、人間は、というより男性は、二十代の間は、自分への希望を捨てないと記述したが、晴元は、すでに、髙国を討つという大義を果たしている。
あとは、十七歳の少年としては、足利義維だろうと足利義晴だろうと、自分が京兆家当主・管領という要職で迎えられるのなら、どちらでも同じではないか。ーーこのあたりは、小説よりも漫画の方が描きやすそうな主題である・・いやな漫画になりそうだが。
そして、そんな晴元との縁談を進行させている六角定頼は健在で、この流れを推進している。晴元としては、しんどそうな大人(定頼)との対決を避け、舅のいうとおり、義晴を奉じて自分が京兆家当主になればよい話だ。
義維が満二十二歳。彼がリーダーシップを発揮できれば、話が早いのだが、そういう人物ではなかったか。当時の大名も朝廷も、一貫して義晴を将軍と認識していて、兎角、義維は存在感が薄い。だが、義維も、もちろん不満で、晴元と対立していた。
つまり、ここから起こる堺公方の内紛は、十七歳の少年が、周囲のしがらみを意識せず、自分本位の主張を掲げた結果、ということになるか。悪いことに、義晴こそ正規の将軍という認識は一致していて、堺公方内部にも和睦を勧めるものはいた。
こうして、堺公方は細川晴元と三好元長で割れた。
そして、さらにここに、第三局どころか、第四局が関わってくる。のしかかってくる、という方が正解か。
本願寺第十世法主・証如である。




