穢土~堺公方消滅~
発端は、堺公方方、河内国で起こった下剋上だ。河内守護・畠山義堯(よしたか、父は畠山義英、一時期畠山尚順と同盟していた)に対し、守護代・木沢長政が背いた。
この木沢長政は、畠山家被官だが、渾身これ下剋上という権謀家で、最終的には畠山家を手玉に取るところまでいく。木沢氏自身、南北朝時代に南朝から下って畠山氏に仕えたが、本姓不明。ーー無から出てきた馬頭の鬼だ。
先の細川髙国との戦いでも、髙国軍の強勢を前に一時行方をくらませ、大物崩れが起こってから姿を現し、髙国方細川尹賢(ただかた、香西元盛を讒訴)を捕らえ、自害させている。
木沢長政の主君・畠山義堯は、義維擁立派で、晴元の諫止に回っていた。長政は、これを、京兆家に取り入る好機と見て、主君を飛び越え晴元と結びつく。河内守護代・遊佐堯家を殺害、畠山義堯勢を攻撃した。
なかなか、あっけにとられてしまう人物だ。しかも、この人物、髙国・堺公方戦争の以前に、畠山家被官のやはり遊佐氏を殺害し、出奔、髙国側についている。その後、細川晴元に接近して、被官に収まる。つまり、細川晴元・畠山義堯の二君に仕えていたわけだ。
(左京亮〈さきょうのすけ、長政の通称〉いい加減にしろ!!)
義堯は急遽、同じ義維擁立派の元長と接近。
つまり、木沢長政は細川晴元、畠山義堯は三好元長を味方につけている。享禄四年(一五三一)八月、畠山義堯は、三好元長の援軍を得て、木沢長政の籠もる飯盛山城を攻めた。だが、晴元が撤兵命令を下し、一旦撤収。
だが、翌享禄五年(一五三二)五月、再度畠山義堯は飯盛山城を包囲、今度は三好元長も出陣し、木沢長政を排そうとする。
長政も晴元に援軍を要請するが、義堯・元長連合軍の重囲は解けない。
ここで、晴元は、自力での解決を諦めた。
山科本願寺法主(石山はまだ本山ではない)証如を頼ったのだ
細川晴元は、一向宗一揆軍の派遣を依頼。
これは、じつは、本願寺側にとっても、決断だった。先代法主・実如の遺訓に「諸国の武士を敵とせず」というものがある。思えば、蓮如の時代から、武家との決定的な衝突を避けている。
だが、三好元長は熱心な日蓮宗で、法華宗の勢力と結んでいた。だから、法華宗の顕本寺が堺公方の拠点になっている。一向宗と法華宗は、対立していた。
このことが、十七歳の証如を刺激した。
証如は、細川晴元の要請を容れる。ーーよく考えれば、権力を持ちすぎた十代同士の、危険な結託ではないか。
欣求浄土厭離穢土
享禄五年(一五三二)六月十五日、三万の一向一揆軍が、飯盛山城を包囲する義堯・元長軍に、背後から襲いかかった。彼らは退却する畠山義堯軍を追い、南河内まで追跡、義堯を自害へ追い込んだ。
さらに、堺へ逃れ顕本寺に立て籠もった元長を、一揆軍は包囲する。その人数はじょじょに増え、十万人に達した。
規模が違う。
(なぜ、一向宗が!? われらを襲う!!)
顕本寺は堺公方の本拠地だ。
つまり、堺公方という組織そのものが一向宗に蹂躙された。元長は足利義維を阿波に逃すのがやっとだった。
このとき、義維に付き従ったのが、元長の嫡子・長慶である。
晴元の裏切りを聞き及んだのだろう。元長の最期は壮絶だった。腹をさばくのみならず、臓物を取り出して天井へ投げつけた。
「小僧がああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーー!!」
それは、幼将軍と、さらに幼い主君を支えて、享年三十二まで阿波陣営を率い、天下を伺うところまで育て上げた男の、怨嗟の叫びだった。
小僧同士、気が合ったのだろうか、証如の息子・本願寺第十一世顕如の室は、細川晴元娘(妙春尼)だ。
この妙春尼、細川晴元正室・三条公頼娘の妹である。
一旦、細川晴元の養女となり
さらにその上で、六角義賢(定頼嫡男)の猶子となった上で、顕如に嫁いでいる!!
しかも、妙春尼を養女にした時点で、細川晴元の妻は、継室の六角定頼娘だ。
六角氏
細川晴元
蒲生対い鶴御所
本願寺教団
やがてここまで成長する、巨大な陥穽の中で、三好元長は息絶えた。




