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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
義満以降─日野家の女婿たち─
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義満戦乱の治政

 こうして万難を排して、第二期秦氏政権、、ーーーしかしながら、ここから秦の野趣は褪色していく京都政権

 室町幕府を、三代足利義が継承する。ーー彼とて、幼少の頃、例によって京都を奪われ、赤松氏の白旗城で暮らしたことがある。赤松則祐が彼の養父になったというから、赤松氏の出頭は当然のことだった。

 貞和五年(一三六六)貞和の変によって、斯波高経が病没・・二代義詮の病没、佐々木道誉の引退と、このあたりで『尊卑分脈』事件と、日野家との縁組みが、ざっと終了していたとかんがえたい。

 義満は、まだ幼名だったが、この頃、従五位下に叙され、四代後光厳天皇から「義満」の諱を授かる。注目したいのは、ここで「尊義」という諱も提案されていたことだ。これを断り「義満」を採用したのは、柳原忠光だった。

 柳原氏は、藤原北家真夏流から誕生したばかりである。

 両者の結びつきが透けて見える。

 応安二年(一三六九)十二月三十日、朝廷から征夷大将軍宣下を受ける。まだ満十一歳であり、政務は管領細川頼之に委ねられていた。彼は、南朝の策源地である九州に、今川貞世を派遣し、長い戦いを終結に向けようとした。

 だが、この年、懐良親王は明から「日本国王」に叙せられ、冊封体制に入る。この日本国王は、倭寇鎮圧を命じるためのもので、明は「倭寇を鎮圧せねば国王を捕らえる」と高圧的だった。これに対し、懐良親王は明使五名を殺害したというから、戦闘的だ。鎌倉幕府の元への対応が頭にあったのだろう。

 この「日本国王」は、ずいぶん役に立った。勘合貿易をおおっぴらにできるのはもちろん、島津や北朝のものたちも明に使節を送るために「良懐(懐良の支那名)」を名義にした偽使を送らねばならなかった。義満ですら「日本国王良懐」と争う北朝の臣下、という扱いだったのだ。

 倭寇を制圧すれば私貿易を抑制できる。そうなれば「日本国王」であるおのれの名で勘合貿易をしようとする大名が現れる・・と、この状況は、ずいぶん、南朝に有利だった。

 

 強勢の懐良親王も、今川貞世が松浦党と手を組み、太宰府を攻めたことで筑後に退却する。応安五年(一三七二)のことだ。しかしその後、今川貞世は南朝大名の蜂起を受け、戦線から肥前に撤退する。一三七五年のことだ。ここで貞世は大内氏に救援をもとめるが、大内弘世(娘が宗像氏室)は九州上陸には消極的だった。ーー貿易を念頭に置いた場合、どうかんがえても南朝に媚態を示した方がいい。弘世は、九州から勝手に帰国したり、それどころか貞世の領国である安芸に侵攻したりする。だが幸い、長男の義弘はこの時期北朝に協力的であり、彼の協力もあって、どうにか北朝の優位にまでこぎ着ける。

 ーー大苦戦である。

 やはり、南朝は強勢だった。その間、中央でも、自分を派遣した細川頼之が失脚したり政変があり、おのれの任国の守護を解かれ、貞世は大いに苦しめられた。

 ーー今川家の英雄ではないか。彼の任国は当初、備後、豊前、肥後、日向、と、西日本だった。それが応永二年(一三九五)に上京すると九州探題を解かれ、遠江と駿河の半国守護(二名で守護にあたる)に任じられる。ーーなんと、今川家は、当初、九州方面の大名だったのだ。それが更迭され、駿河今川家になった。更迭の理由は、島津や大内といった勢力が蠢動し、九州の協調体制が崩れたためなのだという。


すでに、明徳の和約(一三九二)も成っている。ーーそうだというのに、このまとまりのなさ。

 南朝はただの建前で、関門海峡あたりから九州の大名の本音は

 「今貿易が盛況なんだ。幕府は首を突っ込んでくるな」

 だったのではないか。

 

 つい、九州戦線に目が移ってしまうくらい、南朝ががんばっている。義満も、日野業子を迎え、富士遊山、厳島神社参拝、三十代になって、視察にも出かけ、政務も手がけるようになっている。それでもまだ、楠木正儀に奇襲を受けたり、安全とは言いがたい身の上だった。それどころか康暦の政変(一三七九)では御所巻きに遭い、細川頼之を解任させられている!!

 

 金閣寺で酒杯を傾ける姿を想像しがちだが、いや、エライ目に遭っている。

 

 明徳三年(一三九二)楠木正儀が籠もる千早城、、ーー正成が籠もったあの千早城が陥落する。これでようよう南朝の衰微が決定的になり、大内義弘を仲介に和睦、両統迭立(両統テツリツ、持明院統と大覚寺統が交互に即位する)を条件に、南朝に三種の神器を返却させ、南朝が解体

 これによって、長きにわたった南北朝時代が終焉となる。

 (なんじゃこりゃあ)ようよう、祖父以来の宿願を達成した。だが、達成感以上に、義満は、呆然としていた。

 そも、尊氏が横車を押したのがすべての原因だ。それが、正統なる王朝であり、皇室自身が近代化を遂げようとしていた南朝を向こうに回し、横車を押し通すのに、ここまで時間がかかった。そういう風にかんがえることもできる。

 ーーだが、何か、それ以上に、どえらい変化が起こりつつある。

 それが、南北朝を看板に噴出しつづけている・・そんな所感だった。

 これでまだ、九州が治まったとはいいがたいのだから、十四世紀いっぱいは、戦いの中で費やされた。

 

 

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