悪人の府
これは、足利義満と、日野業子、日野康子だけではない。
有名なのは、八代将軍・足利義政と日野富子だろう。
そう。
一人や二人では利かない。
三代足利義満(正室日野業子、継室日野康子)
四代足利義持(正室日野栄子)
五代足利義量(正室なし、満十七歳で逝去、母は日野栄子)
六代足利義教(正室日野宗子、側室に日野重子)
七代足利義勝(正室なし、享年満九歳、母は日野重子)
八代足利義政(正室日野富子)
九代足利義尚(正室祥雲院〈日野勝光娘〉)
十代足利義稙(正室なし、側室山名豊重娘、母は日野富子の妹・日野良子)
十一代足利義澄(正室日野阿子)
十二代足利義晴(正室慶寿院〈近衛尚通の娘〉母は日野阿子)
十三代足利義輝(正室大陽院〈近衛種家の娘〉母は慶寿院)
十四代足利義栄(妻結城氏娘、母は大内義興娘、義栄は元来将軍候補ではなかった)
十五代足利義昭(正室なし、側室は赤松氏娘、母は慶寿院、ラストエンペラー)
間違いなく、応仁の乱が転機である。
幕権が低下し、全国が背くようになると、もう勢力家の近衛家や英雄・大内義興とつながろうとしている。たしか、近衛家が島津家と懇意になったのもこのあたりだ。
それまでは例外なく、三代義満から十二代義晴まで、母親や正室が日野氏娘である!!
足利将軍家は、イコールでその御台所は日野家娘を意味する。
もう、両者は同族なのだ。
そうなることで、足利家は揺るぎない武権神授説の根拠を手に入れた。ーー日野家はようよう、薬子の変に敗れた初代藤原真夏以来、天下様になるという素志を叶えたのだ。
じつに多くのことをかんがえさせられる系譜だ。ーー後醍醐帝の謀臣になっていた日野資朝のイメージが強いが、元来、日野家は持明院統支持者である。だから足利家と結びついた、とも解釈することができるが、それにしても、これほど徹底して日野家と結びついていた理由は、既存史観ではよく分かっていなかった。
『富士(富士正晴。作家、詩人)まだあったんやな。足利は源氏やけど、あそこもおかしな家やな。京都へ来て幕府をつくりよるというのは不思議やね。公家ともつかず、武家ともつかずというややこしいラインやろ。
『司馬 しかも足利氏は日野氏とずっと通婚していたでしょう。日野氏というのは公家としてはあまり格がよくないんだけど、そこから娘が来て嫁になる。近衛、三条、鷹司というような家とは通婚せずに、日野氏としていたというのは面白いと思う。
『富士 日野は金があるのと違うの?
『司馬 さあ、お金は足利と姻戚になってからやろな。ともかく武家の足利氏としては、やっぱりあんまり公家化したくなかったんじゃないかな。あんまり公家のすごいやつと通婚するのはいやだと思ったんでしょう。日野のようなそこそこと通婚しておいて、そして公家操作をする。事実、それで一時はうまくいっていた。』
(『日本人の原型を探る』司馬遼太郎歴史歓談Ⅰ 公家と武家)
ひょうすべ史観からすれば、歯切れ良く断言できる。
武権神授説をクリアーするためだ。
しかし、この日野氏ベッタリは、正直、鎌倉時代の北条氏ベッタリの系図の延長線上である。足利氏には、そういうところがあったのだ。長いものには巻かれろ。鬼子である尊氏の子らも、この性格を克服できなかった。
だが、そんな気弱な性格でも、南朝の後継者たる強大な守護大名や管領を内訌の相手としつつも、足利氏は、支えた。新鎌倉幕府であった期間を含めれば、じつに二百四十年近く、武家政権、というよりも、日本国の政権でありつづけた。
悪人の府は、望まれていた以上の役割を果たしたのだ。




