日の出
千寿王も謀略を働くようになった・・しかし、千寿王義詮のブレーンには、他ならぬ佐々木道誉、京極道誉がいる!!
(佐々木源氏そのものを真夏流から外すだと!?ーーーーーーーーー)
愕然としたことであろう。道誉は、一三六〇年代になると、執事(管領)の任命権さえ握り「武家権勢道誉法師」の名で呼ばれる。
この尊氏時代からの元老がいる。義詮は、苦慮したであろう。
だが、道誉にも、大きな負い目がある。幕府内部で斯波高経との勢力争いに敗北し、退潮していた時、義詮が突如高経に使者を送りこう申し渡した「急ぎ守護任国へ退去せよ。さもなくば処罰する」斯波高経は、自邸を焼いて越前へ退去。幕府は京極氏、赤松氏、山名氏、畠山氏の連合軍で高経の籠もる杣山城を包囲した。貞和六年(一三六七)に高経は城内で病没(貞和の変)
これは表面的には、高経被官の朝倉氏が興福寺寺領に押妨(横暴)した。それを高経が止めなかった、と、興福寺衆徒が訴え出たためだ。しかし、実際は、京極氏や赤松氏の要請に義詮が屈したためだという。
斯波氏など、足利庶流の筆頭だ。ーーそれも、切った。太平記には、こうある。
『暫有テ道朝(高経)已ニ退出セントセラレケル時、将軍席ヲ近附給テ、条々ノ趣実モサル事ニテ候ヘドモ、今ノ世ノ中、我心ニモ任セタル事ニテモナケレバ、
『暫越前ノ方ヘ下向有テ、諸人ノ申処ヲモ宥(なだめ、相手の気持ちを和らげる)ラレ候ヘカシト宣ヘバ、道朝畏テ承ヌトテ、ヤガテ退出セラレヌ』
「今ノ世ノ中、我心ニモ任セタル事ニテモナケレバ、」
将軍である自分にも、どうにもできないことがあるのだ・・いかに、道誉や赤松氏といった外様の鼻息が荒かったか、ということだ。
しかし、大きな譲歩だ。
義詮の病死は、貞和の変があった翌貞和六年(一三六七)末だ。ーーどうも、斯波高経の死を受けて、ガックリきた印象である。
斯波高経は、尊氏と同い年。
その上、庶流筆頭で、当時の史料では足利尾張守高経と表記されるほどの権勢を誇った。当然「千寿王様、千寿王様」と義詮を抱き上げたこともあったろう。
叔父を刺したような心地だった。
「ーーーーーよかろう。足利氏
「お主らの業深さに屈そう」
義詮の生前か、死後か、道誉は、肯いたことであろう。
道誉が第一線から退いたのは、一三六八年頃だという。どこか、連動している。
それからさらに五年、あきれるほどに、この外様の元老は長生きする。享年七十三、若い説を取っても六十三だ。
佐々木源氏は頼朝公とともに、藤原北家真夏流から脱落した。
さて、すでに、三代将軍義満は誕生している。
この室町幕府の最盛期を築き、絢爛と称される北山文化を花開かせた鹿苑寺(金閣寺)の主は、尊氏の死後、丁度百日目に生まれている。
義詮が没したとき、満九歳・・
婚姻は親の仕事、という指針でかんがえよう。ーーすでに『尊卑分脈』事件で、源義国流足利氏は、唯一の真夏流将軍家となった。
ここで、武権神授説を満たすべく、さらに、義詮は、足利家そのものの引き上げに着手する。
彼が選んだわが子の妻は、至極単純な相手だった。
日野業子(なり子)だ。
義満は、後年、継室を迎える。その女性は
日野康子である。
もちろん、藤原北家真夏流日野家。
武権神授説の、その淵源と娶せることを、足利義詮は選んだのだ。
足利将軍家は、日野家を選んだ。




