乱世の坩堝
ここまで、等持院の戦い(細川髙国の巻き返し)前後の、諸大名の進退への違和感から、対い鶴御所、第三期秦氏政権を推定して話を進めている。六角定頼の意図は、足利幕府を傀儡にして、天下を牛耳ることにあった。この「天下」は畿内のみか、そこから波及して全国を支配できるのならそれでもいい。
対い鶴御所を仮定した場合、六角定頼の動きは、いちいち合理的で辣腕だ。ーー二手か三手先まで読んでいる感がある。
確かに、定頼からすれば、髙国でも晴元でもどっちでもいいのだ。わが世の春を謳歌している髙国より、窮境の晴元陣営の方が、より深く食い込める。晴元陣営からすれば、等持院の戦いの立役者である定頼の方から手を結ぼうとすれば、驚く程の奇術外交だが、飛びつくだろう。
現に、飛びついた。細川晴元の正室は、三条公頼(きんより、三条家は清華家、従一位左大臣)娘だが、その後を継いだ継室は、六角定頼娘なのだ。
どうも、ひょうすべ史観を抜きにしても、六角定頼という人物は、かなりの黒幕である。あまり既存史観ではスポットの当たらないこの人物が、近江に義晴を引き受け、それこそ執権めいた態度で対い鶴御所を切り回していく。
さて、堺幕府、堺公方。
桂川原での敗戦は、ただの敗北ではなく、評定衆や奉行人ごと逃げ出してしまい、室町幕府が機能しなくなるという決定的なものだった。
その代替としては、足利義維あるのみだった。彼には、かつて義稙に付き従った、少数の幕府官僚がいた。それなら、京都に入れば良さそうなものだが、あえて堺に留まり、そこで政務を行った。満十八歳、だれが決断したのか分からないが、英断だろう。当時の堺は、すでに堀を巡らせた環濠都市であり、豪商たち「会合衆」によって自治される巨大な貿易都市だった。法華宗顕本寺(大阪府堺市堺区)を御所とし、奉行人奉書を発給、それらは「堺公方御下知」という項目で目録に記載されていた。
間違いなく、堺が幕府だった時期があるのだ。堺なら情報も物資も集めやすく、阿波に退くのも自在、柔軟な発想である。
(どうも、桂馬の高飛びだな)
定頼は、一連の事態の糸を引きつつ、かぶりを振っただろう。
(歩の餌食とならねばよいな)
堺幕府の成立が七月。
十月になると、義晴は、六角定頼、朝倉孝景、細川尹賢らの軍勢五万を率いて上洛。
空白地帯の京都を易々と占領して、十月十九日、西七条の川勝寺口で、堺公方軍と衝突した。
この川勝寺口の戦い、面白いことに、記事によって、義晴方の勝ちとも、堺公方方の勝ちともいう。
五万(二万とも)の軍勢を率いて負けるはずがなく、実際、本陣の東寺を襲撃した堺公方軍を宗滴率いる朝倉勢が撃退している。
これに対し、先に髙国に背いた柳本賢治が丹波から、三好元長が摂津から入京し、挟撃する構えを見せる。幕府方も十一月二十九日、越前から三千の援軍が来着し、にらみ合いの状態になる。
しかし、この戦いも、ポーズでしかない。六角定頼からすれば「婿殿」晴元と、本気で争う理由がない。
定頼と三好元長が和平交渉を開始する。
ーーどうも、いきなり、役者がガラリと入れ替わってしまった、人物像をつかみかねている。定頼は、髙国陣営でありながら、晴元との縁組みを進めているあたり、煮ても焼いても食えない人物像だが、元長や晴元、義維は若すぎて事跡も性格を感じさせる逸話もなく、途方に暮れてしまう。
一体全体、誰が、入京せずに堺で政務を行うという独創的な政権を考案したのだろう。この一事で、晴元陣営に才気のきらめきを感じるのだが。
さて、定頼・元長は和平を推進するが、これが、荒れた。
京都にいた柳本賢治、髙国に背いた陣営は、幕府側との講和に反発。縁組みが進められていたものの、当の晴元も講和には反対だった。
幕府側は幕府側で、朝倉宗滴と細川髙国がもめて、朝倉軍が帰国する事態となる。これで兵力を落とした幕府軍は、和平を牽引する力を失った。
結果、交渉は物別れに終わり、義晴と髙国は、近江へ戻る。大永八年(一五二八)五月のことである。
その後も和平交渉は続いた。幕府側の交渉役は定頼で、彼の気の進まない様子がよく分かる。だが、義維が堺を引き払わず、さらに元長が京都で地税の徴収を強行したため、義晴の反発を買った。
九月、義晴は、朽木庄(滋賀県高島市朽木、湖西地方)に移る。京の北方、若狭湾に近く、日本海・北陸・山陰に逃れることのできる場所だ。この朽木に、幕府を構成する人員が集まり、政務を行う。義晴はここで、北近江の浅井氏と六角氏の和睦を髙国に仲介させる。
だが浅井は強硬で、和平に応じない。
定頼は、幕威の低下に、ふと、冷たいものが胸を吹き抜ける感覚を抱いただろう。顧みれば、二人の将軍のどちらも在京していないという異常事態だ。
それどころか、享禄四年(一五三一)一月末、浅井亮政は、晴元に通じ、朽木へ侵攻する。二月一日に、義晴は、近江坂本へと逃れた。六角軍は浅井軍を坂田郡箕浦(現米原市)で破り、南下を防ぐ。
さすが猛将の家である。血の気が多い。
一方で、同盟者の土岐頼武も、この時期、穏やかではない。土岐頼芸の勢力が伸張し、再び、越前へ逐電した。ーー司馬遼太郎の『国盗り物語』では、鷹の絵ばかり描いていた庸君だったが、どうも、やるものだ。実際には守護職に就いていないものの、周囲に濃州太守と呼ばれるようになっている。
一方この頃、堺公方方も楽ではない。強硬派の柳本賢治、さらには細川晴元とも対立し、賢治の讒言が晴元の耳に入るようになっていた。激怒した元長は享禄二年(一五三〇)に阿波に下向し、堺公方の軍事力を低下させる。
まとまりのない時代である。各地で強烈なリーダーシップで引っ張る人間が台頭するはずだ。
細川髙国は、この間、各地を精力的に遊説して、味方を集めていた。かつて、赤松義村をだまし討ちし、彼が預かっていた足利亀王丸(義晴)の身柄を押さえた浦上村宗が、強力な味方になってくれた。享禄三年(一五三〇)摂津に入る。これに、義晴や定頼も呼応し、再度の上洛を開始する。
髙国を押さえるべく柳本賢治が向かったが、なんと、髙国の放った刺客に刺され没してしまう。享禄四年(一五三一)には摂津の大半を押さえられ、さらに京都でも髙国方の内藤氏が君臨し、堺公方は窮地に立たされる。
細川晴元はついに、三好元長に頼み、戦線に復帰してもらう。髙国、浦上連合軍二万、これに対し、堺公方は一万五千、しかも、その約半数を堺の守備に割かねばならない苦しい状況だった。元長は、安孫子、刈田、堀、の三地点に砦を築き、連日矢戦をくり広げた。
「阿波衆奮えやあああああーーーーーーーーーーー!!」
戦線は膠着状態に陥り、五月後半にずれ込む。
だが、さすが三好家というのか。
元長は、いかにも祖父・之長がやりそうな一手を準備していた。
播磨守護職・赤松政祐の着陣である。




