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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
六角の時代
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黒幕は六角氏

 さて、畿内は、髙国・十二代義晴陣営

 阿波からそれをうかがう晴元、もとい三好元長・足利義維陣営に分かれた。

 髙国は、義晴を立て、管領、従四位武蔵野守になる。満十歳の幼君はもちろん傀儡で、髙国や政所頭人・伊勢貞忠(貞宗の孫)のなすがままだった。

 わが世の春である。

 対い鶴御所、近江の六角氏にとって、義晴は、母親が日野阿子(富子の姪)であり、八幡旗手の台頭を狙う点では望ましくない。だが、近年の研究では、十一代足利義澄と日野阿子は、永正二年(一五〇五)の時点で離縁している。義晴は永正八年(一五一一)の生まれで、生母たり得ない。義晴の実母として有力なのは「阿与」という侍女であり、母親の身分が低く、記録に残らなかったとされている。

 (余計な日野の家名(コブ)がついているものの、まあ、とりあえずは、日野家から脱することができるわい)

 六角定頼としては、そんな思いだっただろう。事実、ここから、日野家で占められていた足利将軍家御台所の歴史は一変する。

 次に、事態が大きく動くのは、大永六年(一五二六)七月だ。

 それまでに、定頼は、領国で大きな仕事を済ませている。蒲生高郷(定秀の父)は、蒲生家嫡流・秀行(高郷兄)の遺児・秀紀(ひでのり)を攻撃、定頼の支援を受けて音羽城(滋賀県蒲生郡日野町)を包囲した。音羽城は堅く、長期戦になるが、秀紀方には援軍の当てもない。大永三年(一五二三)三月八日、秀紀は降服し、開城。

 定頼が仲介となって、高郷嫡子定秀へ家督が移行する。

 ここに、高郷流が本流となり、六角氏はおのれに結びついた八幡旗手を成立させた。

 同年、定頼は、家臣団を観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)城下へ集めるため、城割り、城塞の破却を命じる。音羽城もこれによって破壊され、定頼は軍事力や支配力を掌握する。

 もっとも、城割りの後も、必要に応じて新規に築城された拠点はある。観音寺城支城・佐生日吉城(さおひよし城)や肥田城などだ。蒲生氏は、天文三年(一五三三)から三年をかけて、一族の拠点・日野城を築いた。これも蒲生氏への特典の一つだ。

 降服した秀紀は、後に毒殺された。

 蒲生氏は、あくまで客将待遇ながら、事実上六角氏の重臣に収まった。

蒲生氏の嫡流は、それまで、秀綱─貞秀─秀行─秀紀だった。通字は「秀」

 秀行弟高郷以降は、高郷─定秀─賢秀─氏郷─秀行─忠郷となる。

 通字は「秀」「郷」

 これはかんがえすぎで、高郷流に移ったことを象徴するため「郷」も採用したのかもしれないが

 藤原北家秀郷流

 その宗家を自認したのではないだろうか。事実、秀郷流の嫡流というべきは下野小山氏だったのだが、天正十八年(一五九〇)小田原遅参をとがめられ秀吉に改易させられ

 その名跡を、蒲生氏郷が継承したのだ。

 もっとも、氏郷は天正十三年(一五八五)まで賦秀(やすひで)という名前だった。氏郷への改名も、秀郷流の宗家として振る舞うのも、秀吉のアイデアだったかもしれない。ーーこれも、蒲生氏の賜った厚遇だ。

 六角氏以外に目を向けると、美濃守護職土岐頼武は、弟の頼芸(よりのり)と家督争いをくり広げていた。実は、一五一八年に頼芸方に敗れ、越前で朝倉氏の庇護を受け、一五一九年十月以降にようよう巻き返し、美濃守護になった経緯がある。永正十七年(一五二〇)五月の髙国援軍は、ギリギリのタイミングだったのだ。

 だが、大永五年(一五二五)六月、頼芸方の長井長弘によって、稲葉山城を奪取されている。この頃、長井長弘の家臣に松波庄五郎(斎藤道三の父)が加わっている。この長井勢に北近江の浅井亮政(あざいすけまさ)が来援し、関ヶ原で争いとなった。

 戦国時代まっただ中になってきている。

 だが、対い鶴御所の連携は固く、朝倉氏が名将宗滴を派遣、小谷城を攻め、さらに六角氏も連携して、浅井氏を牽制した。さらに朝倉軍は稲葉山城にまで攻め込んで土岐頼武を助けている。

 (鼻っ柱が強い)

 六角氏も朝倉氏も、織田信長に攻められるまでは家名を保つが、それにしても、この下剋上の烈しさには舌を巻いただろう。浅井氏など、もともと佐々木源氏京極氏の被官だ。 新約武権神授説。

 そんな看板一枚では統治するのが難しい時代になりつつあった。こういう大義名分は、圧倒的な、それこそ天下布武を成し遂げる実力がなければ虚名に変わる。

 丹波守護代として丹波守護・細川髙国に仕えた内藤貞正は、在国し、国元を護った。嫡子国貞が在京し、髙国を支えている。大永五年(一五二五)没。

 まさに天下布武だ。

 畿内を安定させ、室町幕府を立て直さぬことには、傀儡政権を占めていても、うまみがない。予想外だったのは、こうまで幕威が低下していたことだ。細川髙国は、当然、同盟者へ有利な御内書などを発行させただろうが、美濃の土岐頼芸、近江の浅井、これらは収まらず、比較的安定を保っているのは越前一乗谷だけだった。

 幕府など問題外。

 実力で鎮める以外ない。

 そんな中、大永六年(一五二六)七月、事件が起こる。髙国が、重臣の香西元盛(こうざい元盛)を従弟の細川尹賢(ただかた)の讒言を信じて殺害してしまう。香西元盛は猛将ながら文盲で、尹賢は、彼が細川晴元陣営に内通しているという文書を偽造して、誣告した。

 なぜ、こうまで尹賢が元盛を憎むのかといえば、冗談のような話で、土木現場で尹賢の人夫と、元盛の人夫が土塁の位置を巡って喧嘩したことが発端でエスカレートしたらしい。 兎も角、髙国は尹賢の讒言を信じ、香西元盛を殺した。すると元盛の兄弟の波多野元清、柳本賢治(かたはる)らが離反

 本当に、細川晴元に内通して、京兆家で内乱が勃発した。このとき、細川晴元満十二歳、少年を戴き三好元長、やっとで満二十五歳が兵を挙げ、足利義維を擁して、畿内へ進出、ここで越年し、波多野軍と合流した。

 大永七年(一五二七)三月

 京都・桂川原で髙国軍と激突

 髙国軍には若狭武田氏の元光が加わっていた。だが、対い鶴御所は冷淡で、六角定頼、赤松氏や斯波氏は、上洛しなかった。先年十月の段階で、丹波守護代内藤国貞(貞正の子)も軍を返している。兵を起こした波多野元清の方に同情的だったのだ。

 それどころか、六角定頼は、この時期、水面下で細川晴元との縁談を進めていた。

 (髙国は世巧者に過ぎる)かんがえてみれば、八幡旗手・蒲生定秀も、まだ満二十歳になっていない。

 (むしろ、晴元や三好元長に成り代わってくれた方が助かるわい)

 一応、二月になって、ようよう、定頼は三千の軍を発したが、定頼自身は動かなかった。六角家の被官たちも、北白川(京都市左京区)に留まり、最前線の桂川には赴いていない。ポーズだけである。

 定頼の消極姿勢は、晴元との縁談だけではない。

 髙国軍には、日野家当主大納言内光も出陣していた。将軍義晴も出陣している。

 (八幡旗手が、八幡神族のために働いてやるものかよ)

 桂川原で合戦が始まると、晴元軍は桂川を渡って、敵軍後方の若狭武田氏の軍を襲い、総崩れにした。主力軍を無視したこの動きに焦った髙国は救援に向かうが、あえなく敗退

 敗走する中、日野家当主内光その人が、討ち取られてしまう!!

 

 ーーちょっと、できすぎといえばできすぎの状況で、陰謀論者としては、疑ってしまう。髙国軍に、甲賀忍でも混ぜておいたのではないか? 混乱に乗じて日野内光を殺害する。内光の子には、幼少の晴光しかいない。

 (京都には、神輿と傀儡のみがおればよい)

 一応、六角軍は動き、勝利が確定してから、晴元軍と交戦している。お義理程度である。

 

 

 髙国と義晴は、近江坂本へと逃れた。当然、そうなるであろう。

 (将軍は保護できた)

 あとは、京都に入った晴元・元長と連絡し、いかようにも状況を切り回せばいい。ーーなんなら、髙国の首をくれてやってもいい。

 だがここで、黒幕然と動いてきた定頼の思いも寄らぬ出来事が起こった。

 

 足利義維を擁して入京する・・そのはずだった。

 

 その晴元陣営が、京都に入らないのだ。

 (なんだと?)

 

 義維は、将軍として朝廷に進物だけ献上し、自身は堺に赴いた。そこに、奉行人を集め、幕府同然に文書を発行し、政権を構築したのだ!!

 

 戦国時代中期の輝ける異端。

 

 堺幕府である。

 

 


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