傍証の山、本証の針
第一期秦氏政権・鎌倉幕府
第二期秦氏政権・室町幕府
これらは、既存の歴史用語に依っている。
第三期秦氏政権・対い鶴御所
とは、また妙な陰謀史観を持ち出したものだ、と、呆れられてしまいそうだが、六角氏と蒲生氏の隆盛を挿むことで、この時期の髙国・義稙抗争が、ずっと明瞭になり、説明付けられるのも事実である。
逆に対い鶴御所を外してかんがえると、義稙と澄元が結び、京都を奪われて近江に逃れた髙国に、諸大名が四万もの軍勢を集合させた根拠が見えなくなる。その後の髙国のみょうに余裕ありげで、強気な態度が説明できなくなる。
いやそもそも日本史自体「秦氏」「スクロールアウト同盟」「武権神授説」というフィルターを掛けると、みょうに背景が明瞭になり、説明の難しいことに説明が付く、そういうことが多いのだ。
もちろん、これが本稿が演出した陰謀史観の錯視なのかも知れない。
それならばそれで、この日本史をまたいで古代豪族・秦氏の変遷が継続しているというひょうすべ史観は、人工物としても、一度完成させてみる価値はあるのではないか?
四信六疑。
四つも信じているのなら、検証する価値はある、というのが本稿のスタンスだ。
そもそも、全国の神社でもっとも多いのは稲荷神社であり、これは秦氏の神だ。
それに次ぐのが四万四千社の八幡神社であり、やはり秦氏の神。コンビニ各社よりも八幡神社は多い。
これはかなり異常な事態なのだ。日本の神道施設が、単一の氏族の神に占められている。
日本は秦氏の国。
そう言える状態が、歴史のどこかの時点で成立した可能性は高いのではないか?
『秦 ハタ、ハダ 天下の大姓にして、其の氏人の多き事、殆んど他に比なく、その分支の氏族も亦少なからず。而して上代より今に至る迄、各時代共、恒に相當の勢力を有する事も、他に類例なかるべし。猶ほ後述の如く此の氏は韓土より渡来の氏と傳へらるゝも、後世皇別、神別の波多、八多等の氏が、反つて秦氏と称するも、此の氏の偉大なるを語る一資料たるべし。以下各條参照。
『1 概観 予輩かつて記あり、系譜と傳記に『秦氏程、偉大な氏は一寸ない。従つて其の調査は面白い、と云つた丈では納得すまいから、今急に思ひつひた其の偉大さの一部を列記して見よう。
数 此の氏族は、傳説に依ると、応神天皇の御代、弓月君の云ふ人が己が率ゆる百二十七県の百姓を伴つて帰化したと云ふ事になつて居る。(中略)その後、雄略天皇の朝、小子部雷に命じて調べさせた所、九十二部一萬八千六百七十人あつたと云ひ(中略)次いで欽明天皇の朝には「秦人戸数惣七千五十三戸」と、書記に載つて居るのである。
分布 斯様に氏人の数が多かつたばかりでなく、其の分布が極めて広い。粗密の度こそあれ、既に中古の初めに於いて、北は奥羽より西は九州に蔓つて居たのであつて、何処の国の氏族を調査しても、大概な所には、此の氏族が見出されるのである。
氏 此の氏族に属する氏は極めて多い。即ち(中略)
政治上の勢力 以上の如き大氏族であるから、政治上に及ぼした影響も実に大きいものであつたが、特に財政上に貢献した点は特筆大書せねばならぬ。(中略)
神祇方面 稲荷さんが天下至る所に祀られるに至つたのは、此の大氏族の氏神であつた事と、此の氏が殖産工業に貢献する所が多く、従いて稲荷さんが、特に殖産の守護神となつた事とに原因する点が少なくないのである。(中略)』
太田亮『姓氏家系大辞典』ハタの項だ。秦氏は、これだけの大氏族で、これは後戸の客が「何処の国の氏族を調査しても、大概な所には、此の氏族が見出されるのである。」この通りになるはずだ。これだけの数と分布は、要するに倭人が秦氏の実力を当て込んで眷属に加わることが多かった、ということなのだろう。
それなのにその秦氏は、高位にも就かず、歴史にもほとんど足跡を残していない。
彼らは馬頭の鬼で、さっさと氏姓を変えてしまう。秦氏の係累ながら秦氏を名乗るのは不利なのだ。だから、表看板では、別々の氏族が日本に割拠している。だが、その地下茎はつながっていて、いざそれら武家の棟梁を立てる段になると、氏神を重んじて、おのれらの氏神とした河内源氏が選ばれる。八幡始めの経緯から、武権神授説に基づく棟梁を選出する。
その伝統に対して
真夏流ばかりではあるまい
と、異論を唱えたのが、六角高頼であり、新約武権神授説だ。
すでに、新鎌倉幕府が室町幕府となり、氏神信仰の時代でもなくなりつつある。信心というより慣習と慣例の問題で(公家のみでなく、武家もまた前例踏襲主義だ)この新たな解釈は、受け入れられる余地があった。系図上は、確かに蒲生氏佐々木源氏には、八幡神族と同等の資格がある。そして、新興階級が下剋上をくり広げる風潮が、近江での支持者を増やした。自分たちに箔が付くのなら歓迎する・・馬頭鬼の生理だ。
なぜ、武権神授説なり後戸の客なりの有職故実が現在に伝わっていないのかといえば、三種の神器と同じだろう。
それが実在しているのは確かだし、古から、それが具体的にどんな物品なのか、興味を持つものは多かった。だが「収められている箱を開けた途端、目が潰れて見えなくなった」類いの伝承があるだけで、現代でも実体が分からない。
皇位継承にともなう大嘗祭も同じで、それがどんな式次第なのか、毎回テレビで特集が組まれるほどだ。だが、秘事は秘事のまま、詳細は明かされない。
案外に、世の中秘密は保たれる。
本証はきちんと回収されていて、だから、傍証を拾っていく。ーー『尊卑分脈』事件のように、どうにも武権神授説が有力に思える痕跡もあるが、断定はできない。
髙国の近江からの巻き返しの場合、なぜあれだけの兵力を集め得たのか、という疑問点がある。加えて、蒲生定秀が満十二歳(出兵が五月だったことをかんがえると、十一歳だった可能性が高い)という幼さで出陣しているという異例もある。
初陣、というのは、十代の前半で行うのが通例で、満十一歳数え年で満十二歳となると、これはよほど早い。吉川元春が数え年十一歳でとびきり早いが、これは例外で、長尾景虎や源頼朝が十三歳、織田信長十四歳、北条氏康十五歳、伊達政宗十五歳、遅咲きとなると毛利元就二十歳、島津義久二十二歳、長宗我部元親二十二歳、となる。
蒲生定秀十二歳が、早熟だったのが分かる。
初陣の年齢はさまざまだが、一貫しているのは、縁起を担ぐための儀式であり、だから、勝利が確実な合戦に参加させる、という通例だ。これでいうなら、京を奪還する一世一代の髙国の巻き返しに出陣している定秀はよほど異常で、ここから、むしろ、どうしても、定秀は出陣せねばならなかった
彼こそが、新約武権神授説の要であり、それが六角定頼を擬制親にしているという証左だった
そういう推論が導ける。
とはいえ、作者も、傍証ばかりでは心許ないと、秦氏が日本のマジョリティ「武家」だった証拠を探している。
これも直接的な証拠ではないが
誓紙、という文化がある。
寺社が発行する、神仏に誓うという形式を踏んだ紙で、これに記した約束に違背した場合、神罰覿面に降る・・神仏を仲介に契約を結ぶ道具だ。
秀吉がその晩年、遺される秀頼に忠誠を尽くす旨、諸大名から誓紙を提出させた。その誓紙だ。武家や大名間の約束事、末端では百姓一揆の連判状にも用いられる。
この誓紙は、正式名称を
牛王宝印という。
牛王、ときた。
もちろん、牛頭天王、兵主蚩尤を連想させる。
各地の「牛王宝印」のなか、もっとも由緒正しいのが「熊野牛王符」だ。
『作者は、熊野ほど原日本的な風景や信仰が根づいている場所はすくなく、正直、渡来人の開発者である秦氏にもっとも似つかわしくないところだとおもっているが、史実は正反対で、熊野は徐福漂着伝説の有力地点とされ、徐福ノ宮神社があり、境内からは秦代の半両銭が出土している。本当に徐福がきたかどうかはともかく、秦氏が秦王朝をバックボーンにハデに自分たちを売り込んでいたということだろう。熊野といえば、三本足の八咫烏だが「史記」の秦本紀(シンホンギ、秦の歴史)第五に、こうある。
「秦之先、帝顓頊之苗裔。孫曰女脩。女脩織、玄鳥隕卵、女脩吞之、生子大業。」』
秦の先祖は、帝顓頊の子孫、孫の女脩である。女脩が織物をしていると、黒い鳥が卵を隕(落)した、女脩はこれを呑み込み、大業という子を生んだ。
『ようするに、秦王朝には聖なる黒い鳥が関わっている、黒い鳥がトーテムである、ということだ。』
熊野は秦氏と縁深い土地で、八咫烏もまた、秦朝のトーテムである。
熊野牛王符の別名も、「烏牛王」「おからすさん」だ。紙面には烏が配列されその配列が「熊野山宝印」「那智瀧宝印」といった文字になっている。約束に背くと、熊野の烏の一羽が死に、約束を破ったものも血を吐いて死ぬ。
武家や百姓がよく持ち出した誓紙というのは、秦氏の神に誓う道具なのだ。
牛王の二字については諸説あり、漢方の「牛黄(牛の胆石)」に由来するともいうが、経緯を見る限り、秦氏の神、蚩尤で間違いないだろう。
百姓も、そこから出た武士も、大名も、蚩尤に誓って同盟や誓約を結んでいたのだ。
こういう習俗が全国的に広まっていること自体、秦のミームが普及していた証左であり、全国に古代豪族・秦氏とその縁者「後戸の客」がいたということではないだろうか。
そういう下地があった上で、八幡始めが起こり、武権神授説が定着した。
これを自分たちに有利に用いようと、新約武権神授説を提唱した。
傍証は出てくる。
だが確証が得られない。
仕方なく、傍証を積み上げながら、作者と読者の印象と判断の距離を埋めるばかりである。




