第三期秦氏政権・蒲生対い鶴御所
義稙は、淡路に出奔する前に、二十年以上延期されていた百四代後柏原天皇の即位式を行うことを決定している。これは、義澄が取り決めていたものを、細川政元が「不要な出費」と切り捨てたもので、朝廷にとっては悲願だった。
義稙の出奔によってまたも延期かと思われていた即位式を、細川髙国は恙なく行う。
これによって、朝廷の信任も得て、ますます、義稙の立つ瀬はなくなった。
(ううううう・・ううぅうううううう)
政元の場合、まだしも、明応の政変で立てた十一代義澄という後ろ盾があった。髙国は、まだ足利亀王丸が十二代義晴になる以前から、この強気である。
第三期秦氏政権。
「対い鶴御所(むかい鶴御所)」としたい。蒲生対い鶴は、蒲生家の家紋だ。
参加したのは、六角氏、そして此度の出兵に応えた、土岐頼武、十代目朝倉孝景、内藤貞正らであろう。
武家の棟梁、というより、おそらく目的は「天下布武」だ。信長が打ち出したこの四字は、現代では、日本全国の武力制覇を意味しないと断定されている。この場合の天下とは、五畿内(山城、大和、河内、和泉、攝津)であり、布武は、武家、幕府を布衍(フエン、普及)させる、幕府の権威を回復させる、という意味だとされている。
東夷ではない。蒲生も六角も、近江の大名だ。その視点からすれば、天下とは畿内のことで、その外縁、地方、蕃
周防
など知ったことか、というのが本音だろう
中央制覇のために八幡旗手たる蒲生氏を擁立する。その上で、足利政権を傀儡に天下人として振る舞う。
それが、対い鶴御所の目的だった。おのれが将軍になるのではない。おそらく、将来的には、将軍に六角氏娘蒲生氏娘を娶せ、外戚に収まろうとはしていただろうが、もともと武権神授説自体、将軍というより、その後ろで糸を引く闇将軍の帝王学である。
(河内源氏将軍から、佐々木源氏将軍へ
(しかる後に、執権として君臨する)
そのあたりが、六角氏の野望だったのではないか。武権神授説に重きを置けば、自然、その偉大な前例である鎌倉幕府は、実際の運営者は北条得宗だった、という平明な事実に行き当たる。
天下の執権
それが、六角定頼の目指す野望で
この野望は、後代、思わぬ人物に受け継がれることになる。
ともあれ、三好之長の進撃によってゆらいだ義稙政権は、対い鶴御所と、その尖兵たる細川髙国によって巻き返され、京都を出奔した。
そこから、おのれを捨て置いて新将軍を立てる流れになり、義稙は追い詰められる。
八月二十三日、改元、永正から「大永」になる。
この改元は、髙国が朝廷に申請したもので、その理由は「将軍(義稙)が淡路に下向し、新たな将軍(義晴)を立てることになったため、新たな年号にするべきだ」というものだった。
十月下旬、ついに、義稙は武力行使に踏み切り、軍を進める。
淡路から堺まで進出するが、義稙の味方は少なく、長年の盟友畠山尚順も、下剋上で実力を削がれており、かつ、嫡子・稙長は髙国との結びつきを重視している。結果、髙国軍に大敗し、数百という戦死者を出した。
(未練か)
この英雄の風貌をした人物の、あまりに無残な晩節だ。義興、という名が思い浮かぶなり、押し殺した、としたい。
これ以上、望むことなどない。
感謝しかないよ。左京太夫(義興)!!
堺で敗れた。
淡路へ逃れた。
こなたは、細川晴元の勢力圏だ。ここを在所に定め、義稙は「淡路御所」という別名の多い人生の掉尾を飾る。阿波という澄元以来の勢力圏からは離れ、畿内へ向かう最前線だ。義稙の苦衷と立場が表れている。
大永元年(一五二一)十二月二十五日、足利亀王丸改め義晴が、十二代征夷大将軍に宣下される。やっとで満十歳であり、もちろん、髙国の傀儡だった。
ここからは、義稙の最後の仕事となる。
義稙は、結局淡路を離れ、阿波へ下向。本格的に、澄元の遺児である細川晴元の世話になる。
とはいえ、細川晴元が満七歳か八歳だ。
三好元長は、之長がずいぶん頑張ったが、やっとで満二十歳ほど。しかも三好領には髙国の手が回っていて、先の戦いで之長を裏切った国人衆に分配されてしまっている。
ここで、義稙は、将軍復職を賭けて
細川澄元がかねて引き取っていた、義澄の二男・義維を養子とする。
これで、かろうじて、晴元陣営は、先の将軍の子供(養子)を擁しているということになり、有利になる。
(立て直せるのか)
かつて、苦節十五年の放浪を経て返り咲いた老英雄ながら、愕然としただろう。
子供しかいないではないか。
大永三年(一五二三)四月九日、義稙は、阿波の撫養(むや、現在の鳴門市)で病没した。享年満五十六歳。
その死の周囲は非常に寂しかったのだろう。豊後の大友氏は、一年後の書状で「阿州公方様(阿波公方、義稙)近日一向その沙汰なく候」最近お話を聞きませぬなあ、と、義稙の死の事実さえ広まっていなかった証左を残している。
なぜか、この人物にはふさわしい気もする。
義材、義尹、義稙、島公方、淡路御所、阿波公方、筑紫之御所、九州公方、越中公方、今出川御所、周防公方
流れ公方。
流浪と変遷を余儀なくされた彼は、多くの別名を付けられ、一つの身にも、一箇所にも留まらなかった。生きているのか死んでいるのか、杳として知れない、それこそが、彼岸と此岸に神出鬼没する、義稙の流儀だ。
彼の没した撫養の地は、その名の由来は「舫い」もやい、船をつなぐ港であったことから来ている。
舫い綱を解き、阿波から再び、船出したのだ。
京都へ、再度返り咲くことはなかったものの、彼が義維を擁したことで
義維・晴元・三好元長陣営と
義晴・髙国や六角定頼陣営と
畿内を二分する抗争をくり広げ、この混乱が、織田信長が義昭を擁して上洛するまで、天下の浮動状態を作り出すことになる。
船頭多くして船山に上る。
義稙は、他の船頭の指図を聞くタイプではない。
他の船頭どもがお山のてっぺんを目指している間、彼は悠々と、彼岸へと旅立っていった。
大内義興は、帰国後、安芸武田氏と、厳島神社神主の友田氏と抗争することになる。友田氏は、義興とともに在京中だった厳島神社神主・藤原興親が後継を定めず没したことで発生した家督争いで出頭した。やはり、義興の長きにわたる在京が、どれほど本国をガタガタにしていたのか、ということだ。
厳島神社でさえ、この有様だ。
そして、この安芸の不穏分子・武田氏と友田氏に、尼子経久が接近
尼子氏の侵攻が本格化し、連年、これと争うことになる。戦いは、苦しい経過を見せ、石見を奪取され、毛利氏も尼子に付いた。
十一ヶ国太守・雲州の狼が牙を剥いた。
だが、大永四年(一五二四)安芸厳島の友田氏の拠点を攻略、さらに武田氏の拠点を襲って、派兵されていた尼子軍を打ち破る。毛利氏が帰参し、山名氏と結ぶことで、石見も奪還しつつ、北九州の少弐氏相手にも有利に戦いを進めた。
大内は依然強大だった。
(海一つを越えれば、阿波だ
(しばしご猶予を、義稙様
(また京に凱旋しましょうぞ!!)
周防の大船は、撫養で舫いを離れた舟のことを知らず、奮闘した時期を持ったのかもしれない。




