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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
彷徨の終わり
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新約武権神授説

 ーー発案者は、おそらく、六角高頼だろう。彼は、長享元年(一四八七)第一次六角氏討伐(鈎の陣)を受けている。

 この際、足利将軍家に愛想尽かしし、八幡旗手・蒲生氏の存在を口外し、それにつながる佐々木源氏の特別性を訴えたのだろう。武家の棟梁たるものは、宇佐八幡宮に縁ある、その祭神や神職の眷属たるべきだ。この思想が武権神授説で、これは、八幡信仰を核にしている。

 まず、八幡始めだ。平直方からその娘と坂東平氏の地盤、そして鎌倉を譲り受けた河内源氏二代源頼義が、関東に入部する。当時の関東は、利仁流から勢力圏を引き継いだ秀郷流、平将門に敗れたものの秀郷とともに巻き返した為憲流、為憲流傍流でスクロールアウト同盟を見れば、後戸の客に寄り添う態度が顕著な平良文流・・秦氏の縁者でひしめいていた。

 なにが佐野(秀郷流)斉藤(利仁流)工藤(為憲流)和田(良文流)

 ありようは天平宝字(てんぴょうほうじ、七五七─七六五)二年に帰化人数十名を武蔵国に入植させ「新羅郡」とした、それ以前にも天智天皇五年(六六六)百済人二千人を同地に入植

 遠江にも駿河にも新羅人を入植させ

 霊亀二年(七一六)駿河など七ヶ国の元高句麗渡来人一七九九人を武蔵国に入植させ「高麗郡(こま郡)」を設置

 これらの事業によって、あるいは自ら開拓地を求めて関東に入部した、渡来人たちだ。まだ鉄器が潤沢とは言えぬ状況で、鉄製農具を鍛えることのできる技術者は歓迎されただろうし、そうでなくともまさに「東夷」という言葉がピッタリの時代の関東人だ。渡来人はまだまだ押し出しがきき、渡来人同士で連絡し合い、多くの邦人を取り込みながら、異邦人たちはミームを扶植しただろう。

 特に秦氏は、厳格な家族秩序で開発を進めていく巨大勢力だっただろう。関東人は、まだ中央で渡来人の先進性がわずかに評価されていた時代、彼らを中央から下向した人士として歓迎し、積極的に縁づいたかもしれない。渡来人は商業もする。外の世界から鉄器その他を入手できるツテとして、渡来人と関係を持ちたがるものは多かっただろう。

 関東に関する記録など、断片たりともない時代だ。

 すべて暗闇で進行している。

 だが一方で、藤原氏が関東に下向し始めた平安中期、藤原時長(利仁父)が秦豊国娘を迎えた。藤原為憲も秦氏娘を妻とし、藤原秀郷も朝廷に従わずお尋ね者だった時代に秦氏娘を娶った。

 中央に目を向ければ、長岡京造営使藤原種継(七三七─七八五)は母親が秦朝元娘であり、だからこそ乙訓郡の秦氏の協力を得られると桓武天皇に抜擢された。その娘・薬子は平城天皇に愛され、薬子の変が起こる。これに、息長姓三国氏を正室とする藤原真夏が協力し、その子・濱雄は息長氏を正室とした。

 藤原氏は、中央時代から明らかに秦氏と結んでいる一派がいる。そして藤原氏が関東へ下向し始めると、秦氏が接近し、彼らの受け皿になっている。

 これは、それだけ、関東では秦氏の勢力が大きくなっていて、だからこそ、藤原氏も彼らの娘を迎えた、ということではないだろうか。偶然で済ますには、武家藤原氏のトップスリー、秀郷流為憲流利仁流が悉く秦氏と縁づいているのはおかしいだろう。

 

 と、いうよりも

 調べれば調べるほどに、だ。明らかに、中央の秦氏と藤原氏は結託していて、その関係が関東に持ち越されたのだ。

 藤原利仁は、秀郷や為憲より一世代上の人物だ。その父は藤原時長、秦豊国娘を娶っている。

 時長の母は、藤原真夏そのひとの娘だ。

 ガッチリではないか。八幡神族息長氏と縁づいた藤原真夏の娘が、藤原時長を、その時長は秦豊国娘を迎え利仁が生まれる。

 ことほど左様に、関東の秦氏は中央と連絡し、藤原氏と結びついた。

 源頼義が入部する関東はそういう土地で、しかも、父頼信とともに房総平氏・平忠常の反乱を鎮圧している。そういう治まらぬ大地だった。

 だから、ここに入部する前に、鎌倉に鶴岡八幡宮を建てた。石清水八幡宮を勧請して、八幡神を河内源氏の氏神に定めた。

 その上で、関東の八秦に臨んだのだ。彼らはよく懐き、関東は源氏の地盤になる。藤原利仁の祖母が真夏娘であることは注目に値する。この息長氏と秦氏の連携は、つまり、息長氏を神功皇后(息長帯姫)や応神天皇と同一視し、八幡神の血族と位置づける、秦氏の信仰形態があったことを証明している。八幡神は、秦氏の神であり、それは息長氏なのだ。

 この息長氏娘(藤原有綱娘)を娶った源義家が、父の頼義とともに入部するのだ。

 氏子たちは、氏神の一族を迎えた。

 その後、八幡神の一族である河内源氏を棟梁に、関東武士団は時節に翻弄されつつ、最終的には団結を保った。有り様は、秦氏を母体とし、藤原氏を顔役に迎えた、武家藤原氏の末裔と、その縁者だ。

 これが祖型となり、伝統になったのが武権神授説で、核である八幡信仰は、氏神信仰は、新鎌倉幕府の頃までは継承されていただろう。棟梁の資格は、大神姓北条氏やら宗像に通じる高階氏やら、多少のぶれはあったものの、つまり、真夏流の縁者、ということだった。

 

 だが、佐々木源氏は、その真夏流血族から追放された。その上で、足利将軍家への遠慮を止めた六角高頼は、佐々木源氏のもう一つの権威、息長氏のそもそものルーツである天之御影神・三上支流蒲生氏を新たな武権神授説の根拠に据えることを考案した。

 (わいらは、将軍家とも対等以上の家格である。ーー日野家の我が物顔もこれまでよ!!)

 この方針に基づき、蒲生高郷を迎え入れ、彼に偏諱を授けた。ところどころで近江勢が見せる奮闘は、この新約武権神授説とでもいうべき思想への興奮に由来している。蒲生氏は、六角氏は、日野家や足利将軍家にも匹敵する家格なのだ。

 だから、大内義興とともに上洛した義稙に京を追われた義澄を引き取った。義澄がまた京都を奪取したのなら、今度は日野家ではなく蒲生家やおのれら六角家が新約武権神授説の根拠となり、幕府に君臨する、そこまで青写真があったのだろう。しかし義澄は病没し、高頼は義稙に従った。明応の政変以来、明らかに幕府は揺らいでいる。だが、それでも将軍が健在で、大内氏ほどの後ろ盾があるのなら、謀反を起こしても無意味である。

 しかし、政権が揺らげば、機を見て六角氏が天下を取り、八幡旗手として君臨する。

 新約武権神授説は、次の代の六角定頼にも引き継がれ、彼は蒲生定秀に偏諱を授けた。

 そこに舞い込んだのが、大内氏の不在を衝いた三好之長の京都占領であり、細川髙国の逐電だった。

 (よかろう。大いにおごってくれよう)定頼は、勢い込んだだろう。

 (髙国殿を中心に、新政権を樹立する。その中枢にいるのは、八幡旗手・六角氏だ!!)

 土岐頼武(美濃守護)

 十代目朝倉孝景(越前守護)

 内藤貞正(丹波守護代、守護職は京兆家)

 彼らも応じ、四、五万という大軍が集まった。

 これは、細川髙国の救援ではない。彼を中心に、三上支流蒲生氏を後ろ盾に義稙政権を乗っ取る、クーデターでもあったのだ!!

 そして、この参加者・・スクロールアウト同盟ではないか。

 土岐氏は、後戸の客には数えられないものの、頼武は朝倉氏娘を娶っている。

 十代目朝倉孝景は、母親が利仁流斉藤氏であり、朝倉氏は息長水依姫の夫・日子坐王(ひこいます王)を祖先とする。

 内藤貞正は秀郷流千晴系内藤氏だ。

 

 (奪取(と)るぞおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーー!!)

 

 彼らは、新たな旗印を掲げ、八幡旗手のもと、八幡神族に牛耳られた秦氏政権へ、反旗を翻したのだ。

 

 


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