↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
彷徨の終わり
PR
72/82

八幡旗手

 しかしここで、奇跡のような逆転劇が起こる。近江へ逃れていた髙国が、六角氏を頼り、蒲生定秀、朝倉孝景(孝景は応仁の乱で活躍した七代目と十代目がいる。今回は十代目)土岐頼武、内藤貞正らと連合し、四万とも五万とも言われる大軍団を結成。

 京都に侵攻するのだ。

 ずいぶん急な展開である。髙国が近江坂本に逃れたのが二月十八日、京都に再来するのが五月三日、三ヶ月も経っていない。

 内藤貞正率いる七千の軍勢とは京都で合流したから数えないとして、それでも、三万もの軍団を近江で用意したことになる。

 これは唐突すぎて、詳細を確認しなくてはいられない。まず、澄元陣営に不利な材料があった。澄元が摂津伊丹城に滞在したまま入京していないのは述べたが、この時期、彼は病に伏せっていた。これは彼の死因になるもので、よほど症状が良くないと周囲に伝わっていた可能性がある。

 六角氏は、下剋上を働き寺社領を押領、足利将軍家もさんざん引き回した梟雄・高頼から、嫡男定頼の代になっている。この定頼は、ずいぶんな器量人で、大永三年(一五二三)文献では初の記載になる、本城・観音寺城に家臣団を集中させるための、城割(しろわり、破却)を行っている。これによって武力と支配力の集中を図り、かつ重臣を直接に動かすことができるようになった。同じ措置を行ったのが、朝倉氏、織田氏、豊臣氏だ

 さらに楽市楽座も諸大名に先駆けて行っている。市場振興のための特権の保障、座(同業組合)による独占の撤廃だ。天文十八年(一五四八)には行われていたことが確認できる。信長はこれを倣う形で導入した。

 永正十七年(一五二〇)の段階では、これら先進的施策がどの程度行われていたか明らかではないが、定頼が他の大名よりも迅速に将兵を招集できた可能性はある。

 ひょうすべ史観としては、注目したいのは蒲生定秀の参加だ。定秀は、六角定頼から偏諱を受けている。父高郷ともども、六角家に仕えており、べつに此度の戦に参加するのは変ではないのだが、永正五年(一五〇八)の生まれなのだ。満十二歳、というのは、初陣にしても早すぎる。おそらく指揮は父の高郷か、重臣に任せていたのだろうが、そうなると、満六歳程度で鎌倉を奪還した中先代・北条時行のように、シンボルというのか旗印というのか、そういうポジションで出陣したのではないだろうか。

 何度か述べているが、蒲生氏は秀郷流千晴系の秦氏。その一方で蒲生稲置氏という三上氏同族であり、この三上氏は御上神社にて「天之御影(あめのみかげ)神」を祭る神官だ。天之御影神こそが文献上初出の息長氏・水依姫(みずよりひめ)の父親である。つまり、息長氏の祖神だ。

 太田亮氏の『姓氏家系大辞典』ミカミの項に『1御上祝姓』があり、これが御上神社神主の家系だ。同項に『此の社に傳へたる神系図に「日本第二位忌火神・正一位大明神(天之御影神、作者註)─天麻比止都許命(あめのまひとつお命、天目一箇雄命、作者註)─天加賀美(あめのかがみ)命(御上君、凡河内(おおしこうち)直、山城等の祖也)─鳥鳴海命─八網田命─室吡古命─櫻井命─比賀多命─多奇波世命(始めて御上姓を賜ふ)云々」』と、御上神社の系譜が記載されている。

 ・「日本第二位忌火神・正一位大明神(天之御影神)」

 ・右と同体とされる単眼の鍛冶神「天麻比止都許命(あめのまひとつお命、天目一箇雄命)」

 ・鏡作氏と密接に関わる三上氏の素性を表しているのであろう「天加賀美(あめのかがみ)命(御上君、凡河内(おおしこうち)直、山城等の祖也)」

 そこから下っていって

 ・多奇波世命(始めて御上姓を賜ふ)

 とある。

 間違いなく、天之御影神は三上氏であり、三上氏同族蒲生稲置氏、つまり、秀郷流に参入した蒲生氏なのだ。

 息長氏の祖。

 これを歯切れ良く「八幡神祖」と表記したい衝動が作者にある。だが、それ以上に、それを躊躇わせる抵抗がある。系図上間違いなく三上氏は八幡神(息長氏)の祖である。正確には傍流になるのか。天之御影神の子供が息長水依姫と天目一箇命に分かれている。

 八幡神とは異なる、八幡神族とは違う

 八幡旗手

 とでも表さなくては収まりのつかない感覚がある。

 川口謙二氏の『続・神々の系図』によると

 『天之御影神とは、現在の滋賀県野洲郡野洲町の御上神社(官中)の祭神で、かつて野洲郡を領した安国造(やすのくにのみやつこ)の氏神であった。御上祝(みかみのはふり)は、この神の後裔といえよう。

 『また、息長水依比売は天之御影神の娘とあるが、御影神を斎祀(いつきまつる)、御上祝の娘と考えた方がよかろう。』

 息長水依姫は三上氏、ということになる。

 ともあれ、息長氏同族三上氏同族蒲生稲置氏、その末裔が蒲生高郷や蒲生定秀であり、定秀嫡孫蒲生氏郷であるのは間違いない。

 

 なぜ、京を追われた髙国が、六角定頼の協力を得たとは言え、三万を越える軍勢を二ヶ月で用意できたのか、その奇術のタネをかんがえている。髙国は無論、おのれが京兆家当主として返り咲けば、六角、土岐、内藤、朝倉らを引き立てると約束しただろう。おのおの、お家騒動の火種を抱えていて、味方は欲しい状況だった。

 だが、義稙は、澄元と結んだのだ。

 後ろ盾を失い、近江に逃れてきた京兆家元当主だ。彼にそれだけの求心力があったのなら、その根拠を確認したい。澄元は病床にある、重篤と伝わっていたかもしれない。だが、それを信じて、髙国に命運を賭す気になるものか?

 飛躍がある。

 六角定頼が先進的な行政をして、軍事行動を迅速に行えるようにしていたかもしれない。あるいは髙国は、義稙と澄元との結びつきは、軍事力で否応もなく従わされたものだ、そう説いただろう。

 それでも髙国を信じて、これだけの兵団を用意できるのだろうか?

 作者は、むしろ、髙国を度外視して

 (兎も角京を落とし、義稙公を戴けば問題は解決する)

 そう計算した定頼が、軍を組織した。

 そんな風に思われるのだ。

 その際、澄元・義稙以上の求心力で協力者を募る、いわば、この作戦の酵母ともいうべき存在が必要だった。

 それが八幡旗手・蒲生定秀だったのではないだろうか。

 

 高郷・定秀親子と、六角定頼との結びつきは固い。じつは、高郷は、蒲生家の嫡流ではない。

 蒲生宗家は貞秀─秀行とつづいていて、秀行の弟が高郷だった。貞秀や秀行は足利将軍家との結びつきを重視したが、高郷は高頼の頃から六角氏に接近した。「髙」は高頼からの偏諱だ。兄秀行が永正十年(一五一三)に没した後、高郷は家督を望むが、存命だった貞秀の意向で、秀行の嫡子が継いだ。だが、高郷はこれに不満をもっていて、大永二年(一五二二)に定頼の支援を受けて秀行嫡子が籠もる音羽城を包囲、定頼の仲介を得て、家督を嫡子賢秀へ移行させた。以後、高郷の分家筋が本流となる。

 なにやら、陰謀の気配がする。六角高頼は、永正七年(一五一〇)に二万の大軍で細川髙国が近江を侵攻した時など、兵力差をものともせずに防ぎきり、敗退させている。

 甲賀忍の影働きもあっただろうが、高頼の時代には、すでに、蒲生高郷が六角氏に属している。

 スクロールアウト同盟が組織されたのではないか?

 甲賀の国人衆の主立つ二十一家、甲賀二十一家には、佐々木源氏のお膝元であるためか、後戸の客も多い。

 ・美濃部氏(菅原姓秦氏末裔、子孫に明治の法学者・美濃部達吉、古今亭志ん生や古今亭志ん朝がいる)

 ・近江池田氏(佐々木支流)

 ・大原氏(宇多源氏、佐々木源氏と同族)

 ・神保氏(惟宗姓秦氏)

 ・近江和田氏(佐々木支流)

 ・上野氏(清和源氏足利支流)

 ・滝氏(滝川一益の家系、もとは三河伴氏だが、甲賀に移ってからは大原氏を自称)

 ・隠岐氏(佐々木源氏が隠岐守護だったため改姓、その子孫)

 ・黒川氏(黒川姓には斯波氏流最上氏、良文流三浦氏、周防大内氏、伊予橘氏、信濃木曽義仲子孫などがある。木曽義仲は河内源氏為義流で八幡神族)

 などである。

 土地柄か佐々木源氏が多いが、佐々木源氏は佐々木定綱(一一四二─一二〇五)が源為義娘の母から生まれ、妻に蒲生惟賢娘をもらっている。

 八幡神族と八幡旗手の接点、えげつない後戸の客人神(まろうどがみ)である。

 つまり、甲賀二十一家には蒲生氏末裔といえるものも多いのだ

 

 そもそも『尊卑分脈』事件がある。系譜集『尊卑分脈』以後、源為義(源義家四男、母真夏流藤原有綱娘、八幡神族)が源義親(悪対馬、源義家二男、母源隆長娘)の子とされ、真夏流八幡神族の血筋から追放された事件である。義親は高階氏娘を娶っていて、その子供なら、八幡神族に代わる権威ともなるが、ご丁寧なことに「母不詳」の子供たちの一人とされている。ふんだりけったりだ。

 この為義の嫡孫が源頼朝にあたるため、作者は、自らの大神姓北条家の血筋を否定しなければならなかった河内源氏足利氏が、競合する河内源氏源頼朝、初代鎌倉殿を一段貶めるために八幡神族から彼らを排したのだとかんがえている。『尊卑分脈』以前の系図では、為義は源義家四男とされていることはすでに述べた。

 この際、佐々木源氏も巻き込み事故を食らった。佐々木定綱の母親は為義娘であり、歴とした真夏流八幡神族であるにも関わらず、頼朝公もろとも排されてしまった。

 『尊卑分脈』成立は南北朝時代から室町時代中後期までで、改訂増補が成されている。作者は、三代義満から十二代義晴まで、真夏流日野氏娘が正室か母親になる通婚が始まる。二代義詮の頃から、息子の嫁と向後の方針を定め、さらに『尊卑分脈』を用いて頼朝公を真夏流八幡神族血族から追放する企みが進んでいたのではないかとかんがえている。もっとも、義詮がかんがえたのは日野家との通婚のみで『尊卑分脈』事件は、後世の発案かもしれない。

 なんにせよ、ひょうすべ史観からすれば、工作の意図は明らかだ。佐々木源氏、京極氏や六角氏も、内心思うところはあっただろう。だが、まだまだ足利将軍家は健在で、彼らは、トップを保持することに関しては、尊氏公以来の烟々羅の気性を発揮する。他のことは譲るが、トップをキープすることには本気になる。

 しかし、九代足利義尚の六角氏討伐のあたりから、事情が変わる。

 下剋上の梟雄である六角高頼からすれば

 (もはや足利将軍家への遠慮もここまでだ)

 そういう気分になっただろう。

 佐々木源氏は、真夏流八幡神族以外にも、三上流八幡旗手ともつながっている。

 (われらの威光は、日野家のみにあらず)

 こちらの権威を口外することで、自分たちは、本来、秦氏政権を率いる、将軍にもなれる家柄だと、喧伝していたのではないか。それを材料に国人衆の蜂起を募る。彼らは同じ佐々木支流、三上支流なのだ。

 六角氏が天下を取れば、栄達は疑いない。

 さらに、新興の国人階級が幅を利かせている時代だ。彼らとしては、新参者の自分たちがいっぱしの扱いをされるためにスクロールアウト同盟も頼れば、三上支流八幡旗手という新たな権威(スタンダード)に属しもしよう。

 甲賀忍たちは、八幡旗手の旗印のもと

 蒲生高郷を仕えさせている六角高頼のもと、奮闘した。

 高郷以来の六角家中の蒲生氏の位置づけは、著しく高い。重臣中の重臣ともいうべきもので、定秀の代には永禄五年(一五六二)徳政令を独自に発布している。金融業者に債務蜂起を命じるわけで、これを家臣でありながら独自に実施できるのは、財政面を委任されていたということでもある。

 そして、名前である。

 蒲生氏は、高郷は妻青木氏娘(甲賀五十三家、斯波氏とも佐々木源氏とも利仁流秦氏ともいわれる)

 定秀は妻馬淵山城守娘(馬淵氏は佐々木源氏、六角氏の守護代を歴任)

 賢秀は妻後藤賢豊妹(賢豊は六角氏の宿老、後藤氏は利仁流秦氏が有名だが賢豊は秀郷流後藤氏)

 と、代々、六角氏の重臣と縁組みし、かつ後戸の客と結びついていた。

 そしてその名前、高郷、定秀、賢秀は

 それぞれ六角氏当主、高頼、定頼、義賢の偏諱を受けているのだ!!

 これだけ代々の当主と擬制親子になって縁固めしているのは珍しいだろう。

 これは、蒲生氏を扱う上で、作者の一視点にする予定なのだが

 蒲生氏は、特別扱いされている。

 代々器量人なのは間違いないが、それでは説明がつかないくらいの厚遇をずっと、高郷流に移った蒲生宗家が滅亡するまで、時の権力者から賜っているのだ。

 この厚遇は、実力以上に

 八幡旗手

 三上支流

 そういう、真夏流日野家に代わる八秦の権威として重要な意味がある、という権力者たちの政治判断あってのものだと思われる。

 ここから、彼らがおのれの器量以上に思い切った厚遇を授かっていく過程を見ていきたい。

 

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。