たていと
細川澄元は、まだ、摂津伊丹城(兵庫県伊丹市)にいる。之長はその代理として政務を行い、髙国方の残党狩りを進めた。永正十七年(一五二〇)五月一日、澄元は京兆家の家督相続を許される。三好之長は、これに代理として御礼を述べている。
京は、彼が掌握した。
(つくづく、因縁浅からぬ都よ)之長は、応仁の乱以来、何度も混乱に陥れた京を見渡し、悦に入ったことであろう。
阿波衆は、京城の腹背に突きつけられた短刀なのだ。一朝事あれば、京を攻め落とし、主人として振る舞える。
四国人がだ。
(アツハツハツハツハツハハハハアハアーーーーー)肩を揺らして快活に笑う。それもこれも、国内の物流が盛んになり、特に西国では瀬戸内海という水路を細川氏が利用し、大いに栄えたからだ。海峡一本で畿内にアクセスできる四国は、謀反のヒンターランド(後背地)になり得る。
今昔の感がある。水軍、回漕業など、南北朝時代には間違いなく「悪党」呼ばわりされた階級だ。建武政権は彼らを同盟者と見定め、その代表者が楠木正成だった。
正成も建武政権も尊氏によって滅ぼされ、それなのに、足利幕府の柱石たる細川氏が、回漕業や貿易で栄達し、富力と家格で畿内を鎮めている。
そうした変化の一端が、こうして、京都に征服を果たす阿波衆の行動になっている。
之長は、四国と畿内が影響を与え合う。
そういう時代に居合わせている自分が、愉快で仕方ない。




