梟雄軍
まるで、地震を起こす魔物を押さえつけている重石だ。
義興が帰国すると、早速、阿波の細川澄元が蠢動する。ーーじつは、作者は、細川氏という一族がいまいちつかめていなかった。無骨な武者の一面があり、幕府の官房長官であり、荒っぽい顔と高官の顔が、なにか統一できないでいた。
ただ、彼らがシーパワーに属する一族だということが分かると、氷解した。
高師直と同人種だ。別に宗像氏でも高階氏でもないが、摂津、丹波、阿波、淡路、讃岐、土佐、と、大阪湾と瀬戸内海を根城にした水賊連中だ。水の武家なのだ。細川氏のスマートさは、物流、商業、マーケティング・・そういった活動の表裏だったのだ。
それだけに、同類の巨魁、大内氏がいなくなると、好機と見た。
永正十五年(一五一八)八月に、義興が帰国。同年十二月、侵攻の気配を見せる澄元に対し、義稙は、赤松義村に、討伐を命令している。
煩を避けたいのだが、どうしても、細川家の内情に踏み入らざるを得ない。細川澄元の側近に、当然のように三好之長がいるような印象だが、この二人は、君臣関係というより、協力関係にあった。細川澄元は、阿波細川家(讃州家)の出身ながら、京兆家の当主を自認している。
だが、この讃州家は、京兆家に次ぐ家格で、京兆家が上屋形と呼ばれるのに対し、下屋形・阿波屋形と尊敬される家柄だ。つまり、ある程度京兆家への対等・対抗の意識がある[だから、澄元の父・義春の代に政元に背き、讃州家と和解するために彼が京兆家の跡継ぎになったのだ]
この意識が、京兆家当主である澄元にも向けられていた。つまり、讃州家は澄元と協力関係であり、その讃州家の家宰が三好之長だったのだ。
そのため、足利義澄が没する前後、阿波から攻め上った澄元軍が京都を陥落させた時、じつは、三好之長は澄元のかたわらにいなかった。讃州家の命令で別方面の指揮に出ていたのだ。それどころか、義稙や細川髙国と内通し、讃州家の保存を図った可能性があるという。
食えない男だ。だが、京都を追われてからは、讃州家を経営していた澄元の兄と祖父が相次いで没し、澄元陣営は、阿波の混乱を収拾するために逼塞を余儀なくされた。
ややこしい。
大内軍が撤退すると、三好之長は、澄元とともに動き出す。永正十六年(一五一九)五月十一日、嫡男を阿波守護に任命することを条件に義稙派に取り込まれていた淡路守護・細川尚春を殺害、淡路を平定する。さらに、摂津で池田久宗三郎五郎(摂津池田氏、池田輝政とは別の一族)が下田中城を確保したのを契機に、十一月六日、兵庫と尼崎から上陸。
越水城(兵庫県西宮市)を包囲し、髙国方の救援を撃退、永正十七年(一五二〇)二月三日に越水城を陥落させる。
この混乱が波及して、京都で暴動が起こり、徳政を求める騒ぎになる。
越水城、兵庫県西宮市は、大阪市まで十数㎞程度だ。京都民が恐慌に陥るはずである。この情勢に乗じて、之長はさらに西進、尼崎まで押し寄せ、細川髙国は撤退を決意、近江坂本へと逃れた。
之長軍、機を見るに敏ではあるが、どこか慎重な足取りである。
だが、大内軍がいない。このことが義稙陣営を不安定にしていた。髙国は近江へ逃れた。一方で、義稙は、澄元と交渉を始めていて、彼を迎え入れる準備をしていた。
(ある手駒でやりくりするしかない)
やはり、義興の不在を感じていただろう。こうなれば、京兆家のトップをすげ替えてでも、京都を安定させるしかない。
三好之長軍は、二月二十日に大山崎(京都府乙訓郡)にまでやって来るが、上洛は見合わせた。
どうも、あの紙の城は、意気揚々と奪うとたちまち捲土重来されて奪い返される。船岡山合戦の大敗北を思い出し、暴動で揺れる洛中を観望していた。
三好之長が、ようやく京都に向かったのは、三月十八日。
慎重である。
いやな戦い方をする男だ。徳政を布告して住民を慰撫する一方、伏見庄や三栖庄(どちらも伏見区)を劫略。
征服者の相貌をして、三月二十七日に入洛した。澄元勢が京都を奪還、じつに九年ぶりのことである。




