分解
(欲しいものは下賜したぞ
(この上は、もう一働きしてもらおうか)
永正十三年(一五一六)に貿易特権を認める御内書と奉公人奉書を授けてから、義稙は、さらに大内氏をこき使った。
永正十四年(一五一七)四月、義稙は畠山順光に命じて、大和侵攻を開始する。大和では、応仁の乱の西軍方として、畠山義就に仕えた越智氏、古市氏(学者の家・清原氏末裔)などが抗争しており、義稙はこれを鎮圧して、大和を手に入れようとしていた。大和は、実質興福寺を始めとする大寺院が支配しており、この国を治める大名権力が不在だった。そのため、大和の武士間の抗争を制圧すれば、同国を手に入れ、幕府の地盤に組み入れることができた。
この事業に抜擢された畠山順光は、じつは、畠山氏出身ではない。彼の父親である木阿弥は、義稙に若い頃から近侍していた同朋衆だ。明応の政変直後、義稙が龍安寺に幽閉された、その時から身の回りの世話をしていた。龍安寺で義稙が毒を盛られ、なんとか一命を取り留めた後、食事の用意は同朋衆が行っているが、このとき、木阿弥も幸子丸(畠山順光)も働いている。要するに、義稙にとって、苦しい放浪時代を通して自分に仕えてきた側近で、その功労に報いて、べつに縁組みをしたわけではないが、足利一門である畠山姓を与えたのだ。
畠山順光は、あっという間に大和を制圧した。このとき同行していたのが義興と大内軍だ。義稙の側近の点数稼ぎのために大内氏も協力させられているわけで、閉口したであろう。
順光は大和各地に兵糧米の供出といった税を課し、さらに官符衆徒(カンプシュト、奈良興福寺の衆徒代表、実質大和守護職である興福寺の武官代表)に就こうとした。これは興福寺の反対によって実現しなかった。実現していれば、大名出身ではない順光を通して、義稙が大和を支配することができる。四大名並立制といい、義稙は、守護大名の力を抑え、おのれに直属する勢力を増やそうとしていた。
冷徹な支配者の相貌をかいま見る思いがする。
順光の帰京が五月、出征が四月だから、いかに速やかに制圧が進んだのか、ということだ。
しかし一方で、義興の忠誠心も限界に達していた。
永正十四年(一五一七)閏十月二日、義稙は中風の湯治に有馬に出かける。
その二日後、義興が、京都から消えた。
彼は堺に移り、義稙は帰京を求めたが応じなかった。
当初、義稙も(うそだろう?)という気持ちだっただろう。ーー義興が、自分に抗議めかした行動に出たことなどあるだろうか?
(おれに落ち度があったか?)義稙はバランスと秩序を重んじるが、暴君ではない。周防から上洛した時には、堺の港を与えるといったし、義興が辞退すれば山城守護職を授けた。
四大名並立制は、義稙からすれば、他にどうしろという話だ。政元の代わりに義興を君臨させるわけにはいかない。それでも、バランスをかんがえ、慰撫には心を尽くした。義興が長年欲していた日明貿易の独占権を与え、四国の細川氏を斯界から閉め出した。京兆家から睨まれる、結構な譲歩だった。
(もう十年か・・)
周防の大内軍とともに京都に入ったのが、永正五年(一五〇八)六月だ。その間、領国に敵もいれば火種も抱えている義興が、在京し続けた。自分も、義興も、大内軍も大いに馳駆した。
ついてきてくれた。
そんな顧慮と感謝も持っただろうか。
義興も、この期に及んで、まだ揺れていた。そもそも、義稙が湯治に出かけた、その隙を突くように出奔しているあたり、いかにも気弱な反抗ではないか。
さらに、義興の帰国は、永正十五年(一五一八)八月、十ヶ月も後になるのだ。
周防に保護している期間も数えれば、二人の間柄は、二十年近くになる。義興は、政弘ほどの無私の忠誠心を持っていなかったが、それにしても、京都を出るのには躊躇いがあった。
律儀者だ。
中国者というのは。
だが、周防の情勢はもう看過できぬところまで来ていた。
尼子氏が台頭し始めていたのだ。
尼子経久の代である。
十一ヶ国太守とも雲州の狼とも呼ばれるこの男は、じつは、義稙・義興とともに上洛し、船岡山合戦にも参加している。ーーそれは、澄元軍も総崩れになるはずだ。その後、尼子経久は、三男・塩冶興久に義興からの偏諱を受けていたり、義稙・義興と同調する動きを見せていたが、永正十四年(一五一四)義興の石見守護職就任に反対する前石見守護職・山名氏と同盟し、大内方の城を攻めている。
[彼もかつては下剋上の奸雄とされていたが、近年の研究でこの人物像は否定されている。伊勢新九郎盛時同様、中央情勢に沿って進退、その枠組みに沿って栄達したのだ]
(戻らなくてはならない)
義興は、京を去った。
四大名並立制は、また一角が欠けた。細川髙国と畠山尚順、残るはこの二人だ。




