リワード
帰国していない、どころではない。義興の帰国は、このさき何年も先延ばしにされる。
どうも、先の出奔といい、義稙は、幕府の基盤固めに腐心していたようだ。
(大内の兵力がどうしても必要だ)先の京都合戦(船岡山の戦い)で澄元軍を撃退したのは、義興の兵力と、彼の勇猛な指揮であり、その澄元は、阿波に退いたまま、雌伏しているのだ。
永正十二年(一五一五)十二月
義稙がかねて建設を進めていた三条御所が完成する。二代義詮や四代義持が御所を置いた場所であり「美麗、驚目しおわんぬ」と公家が記述している壮麗な邸宅だった。この御所は、義稙政権の盤石をアピールする効果があった。ただ、この造営は、四大名ら支援者の出資を受けてのもので、義興もかなり負担したことだろう。
(鹿苑寺〈銀閣〉の慈照院義政公といい)
世の中がゴタついているときに、たいそうなものを建てたがる。ーー木妖、という漢語を連想したかもしれない。支那の皇帝が壮麗な宮殿その他を建造し、天下に負担を掛ける。それは反乱の前兆となり、心ある人は木妖と呼んで忌んだ。
だが、義稙も、義興の負担をちゃんと意識していたのだろう。このバランス感覚に富んだ将軍は、翌永正十三年(一五一六)かねて義興が、いや、大内氏が悲願としていた権利を授ける。
日明貿易の管掌である。
しかも、永久的なものだ。
(ついに!!)
言葉もなかった。御内書と、奉行人奉書によって確約された。
以後、遣明船は大内氏が独占的に出すことができる。朝貢貿易の担い手となったのだ。
海の国が、平将門を出し、姫大神(宗像三女神)が平氏の氏神になった。その時以来の快挙だ。
これは、日明貿易の主な舞台が、堺から博多に移るということだ。ーー先に、義興が義稙から堺を譲られた時、これを辞退している。堺の港を手にしても、相変わらず日明貿易が細川氏の手で行われていては意味がない、そういうかんがえもあったのだろう。
当然、細川髙国は猛反対した。四大名制の軋轢の一つだ。
だが、大内氏の存在感あっての義稙政権なのは明らかであり、義稙は押し切った。これには、単純に大内氏の大兵力が駐屯しており、口を挟める状況ではなかった、ということもある。
先代・大内政弘以来、細川勝元に奪われていた日明貿易の権限が、大内氏のものになったのだ。
(父上、長うございましたな!!)
応仁の乱が起こり、父政弘が上洛し、その兵力で足利義視を擁して以来だ。子の代でも、義興は義稙を擁した。
それもこれも、大局的には、この権限を手に入れたかったからだ。
海の国は念願を果たしたのだ。
だが、このことは細川氏の遺恨になった。大きな収入源である朝貢貿易を断たれることは、片翼をもがれるのに等しかった。
この遺恨は、大永三年(一五二三)寧波事件となって顕在化する。
寧波である。江戸の仇を長崎で討つ、どころではない。大内氏が遣明船を出すと、これに対抗し細川氏も、すでに無効となっている勘合符をもって遣明船を出す。自然、先にどちらが到着するか、明朝に「正使」で通すか、という問題になる。寄港地である寧波には先に大内氏の船が入っていた。だが、細川方は、寧波の役人にワイロを渡し、自分たちの遣明船を先に入港審査に回した。
大内方は激怒し細川方の遣明船を焼き払った。
(こなたは〝国際〟ぞ!! 海の国の領分じゃ!!)
このときの大内方は、まことすさまじい。細川方には役人が味方していたが、一歩も引かず、細川方の正使・鸞岡瑞佐を殺害、副使の宋素卿が紹興へ逃れると、これを追って関係した明の役人を殺害、外交問題化した。宋素卿は、罪に問われ、投獄され獄中死。
以後、細川氏は貿易戦争から脱落、大内氏は巨万の富を得、山口の「京都」が繁栄した。
どうも、この遺恨をみても、日明貿易というのは、大変な関心事だったということだろう。
『一つの考えとして、応仁の乱の背景には、将軍家始め斯波家や畠山家の家督争いよりも、大きな背景として、日明貿易の利権があった、そう考えてみよう。実際、これは、大変な問題だった。日明貿易、正規の勘合貿易でもたらされる利潤は倭寇の比ではない。なぜなら、支那は朝貢国に対しては目上の立場から輸出品を輸入品に数倍する規模にするのが通例で、明から買い入れた糸は日本では二十倍もの高値で売れ、日本の銅銭十貫文が、明に持ち込んだだけで数倍で売れた。
この利権を得るために細川勝元も大内教弘・政弘父子も血眼になり、熾烈な争いをくり広げていた。山名宗全は、この両方に縁組みし、しかも大内側に肩入れして、勝元との対立が決定的になった。何度も言っているが、教弘娘は厳島神宮神主室、政弘娘は宗像大社大宮司家室、宗像氏もこの抗争に参入していた。
この貿易抗争を勝利に導くために、その他の政局があったのではないか。言ってしまえば、細川勝元の真の敵は、山名宗全以上に、大内政弘だった。』
拙稿である。作者は、応仁の発生原因は、じつは日明貿易を巡る争いであり、大内政弘に過敏になっていた細川勝元(東軍)が、政弘上洛の後、西軍に強いつながりがある足利義視を疑惑の目で見るようになったのではないか、そんな風に考えている。
『最初に揺れたのは、細川勝元ではないだろうか。(政弘が来るのか!!)勝元にとって、教弘の代から引きついで宿敵である。日明貿易の巨利を争う大内なら、どんなこともやりかねない!!
この想像が、勝元から平静さを失わせた。ーー義視への態度に疑惑が混ざり、それは義視の一番の支持者が欠けたことを意味する。』
そういえば、細川勝元との抗争は政弘父・教弘の代から持ち越しだった。兎も角、そのくらい遺恨になり、応仁の乱の感情的背景となり、義視の内応を勝元に疑わせ彼が実際に西軍に走る発端となった。そして寧波の乱を引き起こし、明の役人を殺害するほどに大内氏を奔走させた。
ところが、巨大大名たちが右往左往したこの日明貿易、じつは、勘合船は、全部で十八回しか派遣されていない。
七回目までは、三代義満が応永八年(一四〇一)苦節の末に冊封され、南朝から正規の日明貿易の管掌を奪い取った、以来毎年のように派遣されており、なるほどよほど幕府財政は潤ったであろうという盛況である。
だが、四代義持に中止され、六代義教が再開(一四三二)してからは
一四三三、一四三五、一四五三、一四六八、一四七七、一四八四、一四九五、一五一一、一五二三、一五四〇、一五四九、と、十一次五十一隻が派遣されている。
百年間でやっと五十一隻である。
それは、朝貢貿易であり、利益は莫大だが、果たして細川・大内ほどの大名が狂乱するほどのものか。とはいっても、これが重要な収入源なのは理解できる。領地経営にプラスアルファで、応仁の乱以後は三隻三百名までと制限されていたものの、十倍の利益にもなる船を出すことができれば、経営の安定化に寄与するだろう。
だがそれ以上に、大内も細川も、日本国「正使」という立場がほしかったのではないか?
この立場があれば、明土で幅を利かせることができる。もともと勘合貿易は倭寇貿易(私貿易)と区別する符丁だが、その勘合船が、倭寇と手を組んでいた場合、どうだろう?
「わいらは日本国正使・大内様の御支配じゃ!!」そう高唱して官吏に遠慮させ、大いに私貿易に励むこともできたのではないか?
特に明朝との確認が難しい朝鮮半島を介した貿易では、細川・大内の看板は、大きな意味を持ったのではないだろうか?
そうやって、倭寇貿易で身代をなした「有徳人」の後ろ盾として君臨することができれば、東シナ海貿易を背景に、可視化されにくいシーパワーを味方につけられたのでは?
実際、明の側では郷紳、地方有力者が、代理人を通じて倭寇貿易を行い、巨万の富を得ていたのだ。彼らは密貿易船におのれの旗を掲げ、その政治力で官憲の介入を防いだ。日本側も同じ事をやっていたのではないだろうか。倭寇船には、大内菱や細川向かい松の家紋が翻っていたのではないだろうか。
兎も角、問題を難しくさせているのは、明朝が歴世「海禁」を国是としたことだ。例外は永楽帝(在位一四〇二─一四二四)の治世で、それ以外は「国初、寸板も下海を許さず」を信条に、私貿易業者を取り締まった。
しかし、世界はもう大航海時代前夜であり、十六世紀となれば、まっただ中だ。支那ほどの巨大国が東シナ海の交易に存在感を放たぬはずがない。なのに、明朝は「海禁」この矛盾が、倭寇を盛況にさせた。武装した海賊であり私貿易者が「倭」を名乗り、その武威で幅を利かすととともに、所属をくらまして大航海時代に参加した。
戦国時代、九州の大名は南蛮貿易で巨利を博した。これはもう定型文だが、じつは、言うほど南蛮の商品を輸入していたわけではない。当時の南蛮貿易の実情は、日明南蛮の三角貿易であり「海禁」の明を迂回するために南蛮船を介したのだ。南蛮人はマカオ、マラッカ、マニラを拠点に、日本の銀と支那の生糸を交易する中継役だった。当時の日本では、石見銀山の開発が進み、朝鮮から渡来した灰吹法という製銀技術が普及したこともあって、銀産出量が飛躍的に向上していた。一方支那では、銀銭を中心にした貨幣体系への移行が進んでおり、銀需要が高まっていた。なら貿易するのが自然の流れで、だから、倭寇や、それが取り締まられると南蛮商人が進出することになった。これが南蛮貿易の主軸で、じつは、南蛮の輸入品は副産物でしかなかった。
『(やれる)秀吉は、確信したであろう――大明討ち入り……しかし、討ち平らげる必要はない。
目的はあくまで、日明貿易を認めさせる――海禁の壁をとりはらわせるのだ!』
作者は、秀吉の唐入りの目的は、海禁を解除させ、日明貿易を認めさせることにあった、そうかんがえている。
『小西行長は日明の講和交渉にもあたっている――秀吉の講和条件には「勘合貿易の再開」の他、「明の皇女を天皇の妃として送ること」「朝鮮八道のうち南の四道を割譲すること」など七項が盛り込まれていた。だが、小西行長は、明側の使者と謀って、「勘合貿易の再開」のみを条件とし、さらに「秀吉が降服する」というおどろくべき内容に書き換えてしまった!
『……しかし、偽作した講和条件でさえ「勘合貿易の再開」をのこしたあたり、やはり、秀吉が欲していたのはこの一項目なのだと小西行長も考えていたのだろう。』
小西行長は、唐入りにあって、自己の都合で相手国との通信を改竄した。作者としては一番印象の悪い後戸の客だが、その行長でさえ、軟化だらけの講和文書に「勘合貿易の再開」を残した。これさえ通れば秀吉の降服という形であっても、彼は納得する、そうかんがえていたのではないか。
と、いうより、事前に小西は、秀吉から
「他の条件は妥協しても良い。だが、勘合貿易の再開の項目のみは何としても呑ませよ」
そう念押しされていたのではないか?
「朝鮮の南半分を割譲」「明の皇女を寄越せ」受け入れがたい条件を並べて、その中に、入れやすいものをそっと添える。
交渉術だろう。他の条件では妥協しながら、明に「この条件くらいは受け入れないと、相手にも体面があり、交渉決裂になってしまうな」という気持ちを起こさせる。
じつは、その「まあこのくらいなら受け入れてもいいかな」という条件こそが、本命なのだ。
右のように、日明貿易というのは、十五、十六世紀の日明有力者にとって関心の的だった。特に、秀吉は、唐入りをやってでも日明貿易を再開させる必要があった。秀吉の領国は徳川幕府の天領に対して、半分程度の石高しかなく、貿易収入に依存した、日本の政権では珍しい、平清盛、足利義満に続く、シーパワー指向のものだった。
彼は貿易戦争の延長で、侵略戦争を起こしたのではないだろうか。
この点では、大内氏や細川氏も似ている。大内氏は古代からの老舗・宗像大社、海の国の大宮司とは兄弟であり、細川氏も土佐守護や讃岐守護、伊予守護と四国との結びつきが強く、熊野水軍や塩飽水軍を従えて、瀬戸内海の物流を支配した。じつはシーパワー寄りの一族で、いわば、日明貿易の権益を、九州の業者と四国の業者が争っていたのだ。倭寇連中からすれば、日の丸お屋形の公認をどちらの業者がもらえるか、ということで、公営独占の業者の下につきたいのはあまりにも当然だった。
大内教弘と細川勝元以来の両者の争いも生理だった。同業他社だ。
そしてついに、大内氏が日明貿易の一元管理を許される。恒久的にだ。貿易拠点は堺から博多に移り、四国沿岸部瀬戸内海を根城にする細川氏の水軍(運送業者)にとって、大打撃だ。加えて、博多は宗像大社のお膝元で、こちらに水軍が雪崩を打って傘下に加われば、古くから海北道中を支配し、支那の貿易商と婚姻している宗像氏は、日朝明にまたがって君臨できる。
海の国はその覇望を遂げたのだ。




