雪解けという融解
義澄の死によって、近江御所は崩壊した。いや、実際は、その少し前から、六角行髙が、義稙側へ寝返る動きを見せていた。
義材が義稙になっているのに、行髙がいつまでも初名のままなのも違和感がある。以後、高頼という改名後の名前にあらためたい。
六角高頼は、義稙との因縁浅からず、義澄派の支柱かと思えたが、どうも、そうでもないらしい。この紛争の時代にあっては翻転常ないというのか、甲賀忍どもの魔性に浸ったか、冷淡なものだった。
そもそも、京都を追われた義澄を保護したこと自体、二度の六角氏討伐で冷え切っていた足利将軍家との関係を修復する目論見があったからだ。明応の政変直後は、義澄に接近する動きを見せたが、その後、高頼が在京中に、六角氏の所領押領問題で義澄と争い、伊勢貞宗が仲介するものの、近江に帰国するという事件が起こっている。
第一次六角氏征伐の頃から、かなり派手に高頼は下剋上をやっていたらしい。ーー寺社領押領が下剋上にあたるという価値観は、少し現在と食い違っているが、至極妥当だ。
こうして、近江御所は消滅し、政権は義稙に一本化される。
彼が悲劇的であり、英邁だったタームはここまでだ。
別に酒色に溺れるわけではないが、以後の彼は気の毒なほど滑稽で、グダグダになる。ーー応仁の乱の辺りまでは、室町武家の鋭気を感じたが、本当に、明応の政変からはよろしくない。
義稙も、政務を放擲するポーズを取るのだ。
畿内に進出した細川澄元は、再び阿波へ引き返した。義澄が亡き後、逼塞を余儀なくされる。政賢軍、と表記してしまったが、義澄死後京都を占有したのは澄元軍だ。その一武将として細川政賢が参加していたが、大内氏を中心として丹波から巻き返した義稙軍に圧倒され、船岡山の戦いで政賢討ち死に、この際、三千とも五千ともいわれる戦死者を出していて、再起には時間がかかった。
大敗戦である。
やはり、大内氏の実力だ。応仁の乱も、大内政弘が最大の与力として君臨した。
こうして、乱の元である澄元が阿波に逼塞し、京都は平穏を得る。
ーーそうなると、不協和音が顕在化する。
永正八年(一五一一)九月一日、義稙が入京する。関東では早雲庵宗瑞が扇谷上杉家三浦義同に小田原城まで攻め込まれ、和議を結んでいる頃だ。
義稙が入京した九月の内に、義興が周防に帰国するとの噂が流れる。大内義興としては、今度こそ、軍功をタネに抜きん出た恩賞を当て込んでいたのだろう。しかし、義稙は、あくまで四大名並立以上の論功はしない。それで面白くなく、当てつけと「自分がいなくなればどうなるのか、お分かりでしょうな?」という示威もあって、帰国する姿勢を見せたのだろう。
また、義興の在京三年に及んでいる。大内家も、義興弟が大友氏に出奔し、剣呑な火種になっている。家臣がつぎつぎ帰国するなか、義興も周防が気がかりだったのはたしかだ。
しかし、実際に、義興がいなくなれば、阿波の澄元が動こう。
百四代後柏原天皇(後土御門天皇の子供)が、義興の慰留に動いた。義興の船岡山での奮戦をたたえ、翌年には従三位に叙する。
(主上もこのように目にかけてくださっているというのに、当今〈将軍〉は)
十一月に船岡山の戦勝を祝う宴が将軍御所で開かれた。この場で猿楽が催されたが
・一回目が細川髙国と大内義興
・二回目が畠山尚順と畠山義元
という、これも四大名のバランスを取った任命だった。誰を贔屓にしているとも言えない。
こういうことを冷徹にするあたり、自制心を発揮して「フレグ・ハンの征西」じみた動きをすることのできる英傑だ。
翌永正九年(一五一二)六月には、髙国・義興・義元と、石清水八幡宮に参拝
(危ういことよ)
四頭身以下になった牛頭天王は、彼らの列を見下ろして、その不安定さと、それをタガネのようにまとめようとする義稙の意志に、感嘆した。
さらに、髙国や義元の邸宅を訪問「御成」だ。
義興ばかりではない。
予は、おぬしらを頼りとしておる。
義稙の行蔵には、その行間がある。
そうされればされるほど、当の義興にはいい面の皮だ。これが信長や秀吉の時代なら、茶器でも与えて慰撫したのだろうか。
そうこうしている内に、皮肉にも平和が、この体制を空中分解させる。
播磨の赤松義村は、先だって義稙包囲網を形成する際、義澄の長男・義晴を預かっていた。畿内侵攻にも参加していたが、義澄の死を受けて、義稙に臣従する。
いよいよ、潜在的な脅威は、阿波の澄元だけになった。




