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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
彷徨の終わり
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二将軍抗争決着

 さて、伊勢新九郎〝盛時〟の一生と、中央情勢との連動を確認した。伊勢氏のみならず、越後上杉氏の長尾氏も、永正の錯乱、細川京兆家の内紛に乗して下剋上を遂げた。

 われわれの知る戦国時代の様相に近づいている。

 その震源地では、永正七年(一五一〇)二月、京都の義稙が細川髙国に命じて近江征伐を敢行させた。二万の大軍で湖東に上陸したこの壮挙は、しかし、近江国人衆の反攻によって大軍が総崩れになり、大将の雲龍軒等阿弥が討ち取られるという大失敗に終わる。

 近江御所、足利義澄と六角行髙陣営の士気はとみに騰がり、京都へ対決姿勢を打ち出した。

 永正八年(一五一一)六月、義澄が仕掛ける。京都を包囲する勢力圏を形成すべく、次男・義維(よしつな)を阿波の細川澄元のもとへ、長男・義晴を、播磨の赤松義村(藤原北家水無瀬流七条氏出身、赤松政則の養嗣子)のもとへ遣わし、蜂起の準備を進める。

 六月下旬、細川澄元が阿波で挙兵、細川政賢(髙国が義澄を迎えると京を出た)赤松義村とともに、細川髙国の領国摂津などを侵す。

 髙国は、これを迎え撃つが、苦戦を強いられ、八月上旬総崩れになる。河内でも細川澄元軍が畠山尚順軍を破り、四大名制(髙国、尚順、義興、畠山吉元)の二角が落ちる事態に京都は大混乱になる。

 だが、八月十四日、事態が急変する。

 現在の近江八幡市、水茎岡山城で指揮を取っていた十一代将軍・足利義澄が、急死したのだ。

 享年三十二歳、京都と近江御所が決戦に及んでいる最中の死であり、暗殺説もある。

 

 十四日の後も、慣性のように、澄元軍の快進撃は続いた。

 義稙は、叶わぬとみるや、おのれの邸宅に火をかけ京都を離れる。髙国、義興、吉元らととともに、丹波の神吉へ退いた。

 京都へは、細川政賢が入城し、一時占領する。

 だが二十日になると、義澄の死が伝わったのだろう。神吉から、細川、畠山、大内連合軍とともに、義稙が京都へ攻め入る。両者は二十四日、船岡山で激突した。

 

 この戦いは、大内軍の巨大さもあって、二万対六千という兵力差であり、政賢軍は圧倒された。

 細川髙国が、この兵力差を擁しながら夜襲を仕掛け、政賢を討ち取る。

 

 京都は再び、義稙の手に復した。

 

 


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