伊勢新九郎異聞~北条新九郎五代~
永正十三年(一五一六)上杉朝興(朝良の子)率いる三浦義同救援の軍が、玉縄城を襲った。玉縄城の周囲には、現在「玉縄城塞群」と呼ばれる支城がいくつもある。二伝寺砦、村岡城、御幣山城、長尾城。
これらの城塞群に支えられ、鎌倉防衛のための拠点として建てられた玉縄城は、上杉軍の攻撃を凌ぎ、その堅さを明かし立てた。
早雲庵軍は、上杉軍を打ち破り、ついに、新井城の本格的な城攻めに入る。
三方が海の新井城に、早雲庵軍が押し寄せ、凄惨な攻城戦の末に、義同は追い詰められ、自害。その子・義意も討ち死にした。
ここに、鎌倉以来の名族・三浦氏は滅亡。
三浦半島と、鎌倉に、新たな支配者が立ったのだ。
『「なんだ貴様は?ーーーーーーーーー」
おのれの目から吹く塩辛いものを意識しながら、義貞は、波打ち際に立つ女を見た。ーー泡から生まれた女神だとでもいうかのように、麗しく、霊感に満ちている。
『女は、ため息を吐いた。意識の焦点がずれると、どういうわけか、女が、長大な龍蛇が立ち上っている姿に映える、、ーーーーー龍女、か。
「北条得宗の始祖に立ち合った。得宗家の繁栄を約し、わが鱗を三枚、くれてやったものよ」
ーーそれは、北条家にまつわる伝説だ。』
江ノ島弁天の龍女は、かつて北条得宗時政を祝福した。そして、得宗家を破って鎌倉に入った新田義貞を値踏みした。
そして今。
また、現れたのだ。ーーここ、八幡始めの聖地に。秀郷流・・利仁流・・関東の秦氏末裔たちを治めるために、河内源氏二代・頼義が、鶴岡八幡宮にて、一族の氏神を八幡神に定めた。
約定の都
鎌倉
ーー新時代の侍が立つ場所に。
「おぬしが、新たなひょうすべか。歓迎するぞ。鎌倉は常に、おぬしら草莽の八幡に、権威を約束する」
最初の戦国大名
伊勢新九郎盛時は、こそばゆそうに、笑った。
ーーー永正十六年(一五一九)八月十五日。
新九郎盛時は、伊豆国韮山城にて没した。
前年に、家督を氏綱に譲っている。
三浦義同を滅ぼした後も、さらに、彼は三浦半島から房総に渡り、真理谷武田氏を支援、永正十四年(一五一七)死の二年前まで、関東で転戦した。
戦国大名の第一人者。
間違いなく、その称号にふさわしい人物であり、梟雄のしざまもさんざん働いた。
そうだというのに、晩年まで働きずくめの官僚のような、みょうに折り目正しく、安定した印象が、死に際にまでまつわっている。
こういう男もいるのだ、としか作者は感慨を抱けない。済ますべき事を済まし、領民には面倒見のいい領主として当たり、引き継ぎも向後の指針も示して、嫡孫の顔まで見て、この世を去った。
東照大権現家康ほどのアクの強さもない。
良吏だった。
なんなら、一般市民としての尺度としてさえ立派な人物だった。
北条五代、始祖。戒名は早雲寺殿天岳宗瑞公大禅定門。
破天荒さを感じさせながら、禅味も利いていて、戒名まで、バランスがいい。
こういう男が、戦国時代の開幕を飾った。
鎌倉は、この男の一族に領されていく。
早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直。北条五代。
彼らは新九郎盛時以後、氏綱よりさらに下っても
〝新九郎〟を名前とした。
関東に向かい、関東を治める。
それ以上の拡張を望まなかった五代記すら、なにか、官吏の自制めいたものを感じ、折り目正しい。
〝新九郎〟は進み
〝新九郎〟はやり遂げたのだ。
人の一生と、人の一族は、これだけのことをやればいい、ということであり
これだけのことができるという実証を
彼らは満天下に示していった。




