伊勢新九郎異聞~三浦義同道寸~
ーー足利義稙の復帰によって、義澄と同盟していた早雲庵は、かなり窮地に陥るのではないか。作者は、当初、そう考えて、新九郎の動向を追ったわけだが、まさか、その何年も前に、義澄・政元と手を切っていたとは思わなかった。
ーーやはり、京都政権はかなり危ういと思われていたのだろう。
早雲庵は、義澄・政元から離れ、政元の死後は、長尾為景が後ろ盾を失った主を討った。
もう、中央の統制などなくなってしまっている。
(ーーこれでよい。吉野の桜に未練はない
(富士をわが手に、鎌倉の空に臨む
(堀越公方の果たせなんだ夢を、わしが叶えよう
(関東よ。ーーー鎌倉殿が帰還するぞ)
永正六年(一五〇九)のあたりから、早雲庵宗瑞が、今川家の将として活動することはほとんどなくなる。
相模の切り取り。
戦国大名としての活動に専念する。
生涯、今川家との紐帯は継続していたが、彼の向かう先は、関東だった。
永正六年(一五〇九)七月、山内上杉家顕定が、大軍を率いて越後へ出陣。越後上杉家に傀儡の当主・定実を立てた長尾為景を征伐する。為景と定実を、越中へ追うことに成功、だが、八月に、早雲庵宗瑞が、この隙を衝いて今や山内上杉家の敵ではなくなっていた扇谷上杉家の本拠地・江戸城を急襲する。
(為景殿なら、顕定を手こずらせようぞ)
上野へ出陣していた上杉朝良が、急遽兵を返し、翌永正七年(一五一〇)まで、武蔵、相模を転戦、かろうじて早雲庵軍を防ぐ。
(扇谷も山内もあるものか!! 二本の杉は、子に食らわれ倒れるのだ
(わしが、虎になるための踏み台となれ。両上杉ーーーーーーーー!!)
越後の顕定は、強硬な統治で国人衆の反発を買っていた。長尾為景はその気運を観望しつつ、越中から伊達家の援軍を要請。越後、信濃、能登、飛騨の諸将と連絡し、幕府とも情報を交換して、反転攻勢の機をうかがっていた。
そして、永正七年(一五一〇)四月、越後へ捲土重来、六月二十日、越後府中を奪還した。
さらに退却する上杉軍を追い、長森原の戦いで、短兵急の合戦に及んだ。逃げる顕定軍、八百、これを追う為景軍五百、息せき切るような追撃戦だ。
「もぎ取る」
長尾家の戦法に匂う性急さと強引さだ。マイナスの材料も被害も目もくれず、戦術目標をもぎ取ってしまい、戦いを勝利へ導く。
敗走する軍団よりも小勢の追撃軍は、顕定軍に襲いかかるが、あえなく撃退される。
だが、そこに、同盟者の高梨政盛(謙信の大叔父)が七百の軍勢で側面を強襲、顕定軍を圧倒し、顕定を討ち取った。
ーー目標を貫徹する強固な意志。
ただの猛将ではない、名将の一族である。
(やりおったか!?)
よもや、そこまでの大戦果を挙げるとは、宗瑞は予想していなかっただろう。顕定は、山内上杉家当主として、戦乱の関東を四十年差配した関東管領である。
宗瑞は、顕定の死を十二分に利用した。権現山城(横浜市神奈川区)の上田政盛を調略し、寝返らせる。扇谷上杉家の重臣だ。
(これはまずい)
扇谷上杉家朝良は、青くなっただろう。山内上杉家とは決着が付き、宗家と分家の関係に落ち着いている。だが、その山内上杉家のカナメである顕定が討ち取られ、諸将が動揺している。
こうなれば、もう、なりふり構っていられない。
朝良は、山内上杉家を継いだ上杉憲房に接近、両上杉家の軍で権現山城を陥落させ、上田政盛を戦死させた。
ここで、宗瑞晩年の宿敵となる、扇谷上杉家・三浦義同が登場する。鎌倉幕府創立の功臣・三浦氏の末裔、相模三浦氏である。
すでに、義稙が京都に復帰し、義澄の近江御所と抗争している中央情勢を追い越そうとしている。
ここは、先に、宗瑞の晩節と、相模平定を追い、それから、二人の足利将軍が角逐する中央情勢に戻っていこう。
両上杉家連合軍が権現山城を陥落させ、上田政盛を戦死させる。
三浦義同道寸(よしあつドウスン、道寸は法名)は、高麗寺砦(神奈川県大磯町)と住吉砦(神奈川県平塚市)を陥落させる。
神奈川県平塚市は、実田城の所でも触れたが、箱根町のすぐ隣だ。
小田原城にまで急迫する!!
(いかん)
小田原城を失えば、大被害だ。それは、箱根山の西側へ、また押し返されるということではないか。
宗瑞は、急遽、扇谷上杉家との和睦に走る。




