甲賀忍者
十月二十六日、就寝中の義稙に刺客が襲いかかり、あわや殺害されそうになる大事件が起こる。これは、無論、御所に内通しているものがいなければ不可能な作戦で「瓦林正頼記」という文献には、襲撃犯は「夜討の上手」円珍という人物だと記載されている。
『同六年十月廿六日ノ夜江州ヨリ究竟ノ夜討ノ上手円珍トヤラム云時衆
義澄将軍ニ被㆑頼申(頼まれ申し)御所ニテ被㆓召遣㆒ケル(召し遣られける)繁阿弥ト申合ムマ〱ト(申し合うまま、示し合わせて?)御所ニ忍入其外手柄ノ者三人計リ推参仕
既ニ太刀長刀ニテ切奉シニ御所様モ御打刀ニテサン〱(さんざん)ニヒヤウシアイシ給ヒケレトモ(拍子合いし給いけれども、斬り合われたが)
知人(知る人、異変に気づくものは)サラニナカリケリ
御立烏帽子御衣ナントハ継ク所モナク切奉リケルカ(烏帽子と着衣の継ぎ目が切り離されるかのように斬りつけられたが)
御身ニハサシテ深手ハマシマサス(深手はなく)薄手少ソ御坐アリケル
不思議ト申モヲロカ也
御所様灯火ヲワサト(わざと)打ケシ(打ち消し)タマヒシ時
御トノイ(御宿直)モノヲ(物を、長物を)サン〱ニ切リツ又ハツキナントシテソ出タリケル
一定討止奉タルソト心得罷出(円珍は烏帽子が着衣から落ちたので、首を取ったと勘違いし、逃げ出した)
江州ニテハ(その後円珍は近江にて)討スマシタル(見事義稙を討ち取りましたと)由申タルソタト聞ヘシケルイ』
この円珍を相手取り、義稙は一人で応戦、烏帽子や衣服を切り裂かれながら、刀を取って戦い、何カ所も傷を負ったものの、宿直の乱入もあって、円珍を撃退する。
ーー甲賀者、か。
つい、そうかんがえてしまう。まさしく忍者働きだ。
(甲賀には物の怪が棲みよるわ)ーー以前、六角行髙と争ったときにも、諜報に、破壊工作に、奇怪なやつばらが蠢動していた。尚順と京都を挟撃するときにも、連中が活躍していた。
(ーーこうも物騒な連中を飼われていては、放置することはできぬな)
翌永正七年(一五〇九)二月十六日、細川髙国の近臣・雲龍軒等阿弥の率いる軍勢二万が出発、琵琶湖を渡り、二十日に湖東の水茎岡山城、義澄の居城へと接近した。
しかしここで、奇怪なことが起こる。等阿弥は、水茎岡山城に近い守山に布陣していたのだが、近江の国人衆がこれを襲い、守山に布陣した翌二十一日に、京都への退路を断たれ、総崩れになってしまう。
雲龍軒等阿弥は討ち死に、近江遠征は失敗した。
水茎岡山城、守山のあたりは、鈴鹿山脈が途切れ、平地を形成しているものの、地平は山々に遮られ、しかも退路には湖水がたたえられている不穏な地勢である。
どうも、この地形は、また、やったのではないだろうか。
甲賀忍、と、心躍る名称を使わせてもらう。甲賀の国人衆だ。
流言で近江衆を誇大に吹き込みながら、稜線に紛れ包囲、軍船を焼いて湖東で敵軍を孤立させ、その上で、水茎岡山城と連携して打って出れば、ひとたまりもあるまい。
合戦は、ある意味大規模な喧嘩で、戦死するまでやるやつは滅多にいない。戦意を鈍らせ、気勢を挫き、不利だと思い込ませれば、軍勢は崩れる。
織田軍もさんざん翻弄された伊賀甲賀のやり口に、そのホームグラウンドで翻弄されたのだ。
この大軍勢の敗因を、細川髙国が京兆家惣領として信を集めきれず、結束が揺らいでいたため、とする説もある。さもあろう。そして、この出征に、大内軍は参加していない。
この頃の髙国は、義興と良好な関係を築いていて、お互いの邸宅を訪問し合う仲だった。髙国が義興の協力を仰がなかったのは、細川一門棟梁としてのおのれの実力を示すため、義興の参加を謝絶した、そんな説もある。
ーー作者は、まだ、両者に、貿易戦争のわだかまりがあったのではないかとかんがえている。時の管領とあれば関係を修復しないわけにはいかないが、だからといって、日明貿易で対立しているる細川氏が、義興には面白くなく、あえて軍を出さなかったのではないだろうか。
この近江での大勝利を受けて、義澄陣営の気勢は上がる。義澄は、おのれの股肱である澄元や三好之長が阿波に去り、心細くなっていた。だからこそ、義稙暗殺という堂々としていない手に走ったわけだが、この一戦で、自信も付いた。
(堀越公方政知の子ぞ!!)
伊勢新九郎とも連携して関東と東海に介入していた父を思い、おのれを奮い立たせただろう。
ーー澄元や三好之長は去った。だが、近江衆も、戦国時代であり、栄達に焦がれる馬頭の鬼に変貌している。
(将軍家を戴けば他日勝ち馬に乗る目は十分以上だわい)脂ぎった野心があり、甲賀衆ともども、献身する理由はあるのだ。
そして、彼らを率い、義澄を庇護しているのは、他ならぬ、義稙の宿敵・六角行髙だ。
近江御所の存在感は、歴然としていた。




