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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
流れ公方の帰還
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近江御所策動~如意ヶ嶽の戦い~

 さて、義興は、義材政権での自分の位置について、不満があった。ーーところで、足利義材は初名で、放浪中に「義尹(よしただ)」と名前を変え、最終的には「義稙(よしたね)」という名前になる。

 ここからは、将軍に復帰したことだし、最終的に名乗る「義稙」で表記していきたい。

 山城守護職となったものの、思惑とは違い、多頭制である。そんなこんなで面白くなく、また、義稙に揺さぶりをかける意図もあったのだろう。

 七月二十三日「述懐」思うところがある、として、帰国を願い出る。義稙は、慌てた。近江には依然、義澄と澄元(阿波細川家出身京兆家当主)がいる。彼らが巻き返した時、大内氏の大兵力がなければ、勝利は覚束ない。

 (京の防御力になど期待できぬ。攻め込まれぬだけの兵力を滞京させねばならぬ)

 義稙は使者を遣わし、さらに朝廷からも勅使が派遣されて、帰国を思いとどまらせる。ーー大仰である。

 義興としては、義澄らが近江にいるからこそ、帰国したい、ということがあるのだ。ーー大友氏に檄を飛ばし、自分が不在の本国に攻め込まれてはたまらない。その上、大内氏もご多分に漏れず、家中に火種を抱えている。義興の弟が謀反を起こし、大友氏に逃亡している。これは高弘という人物で、彼は足利義高と名乗っていた頃の義澄から、偏諱を受けているのだ。

 義興は、一時抗弁したが、結局、折れた。このとき、義稙が義興の要求を受け入れたというが、何の要求を容れたのかよく分からない。

 

 しかし八月になると、また不和が表面化する。八月十一日、義稙は、帰京後最初の「御成」訪問先に、四大名の畠山尚順宅を選んだ。将軍ともなれば、一挙手一投足が行事であり、重大な意味を持つ。この場合、義稙復位の最大の功労者が、畠山尚順だという表明に等しかった。

 (ーー結句、足利一門か!!)

 それは、尚順は、紀伊の本拠地から粘り強く河内や大和に兵を出し、畿内を切り取って何度も好機をもたらした。その間一貫して義稙方であり、忠臣と言える。

 しかし、それにしても、畠山尚順よりも自分の方が貢献していない、そう態度で示されてしまうとは!!

 あまりに不愉快になったのだろう。義興は、宴会を途中退席し、細川髙国も、いっしょに宴を辞した。

 (尚順か!!)

 と、細川髙国は髙国で、京兆家のおのれが軽んじられたかのようで、面白くない。二人は、尚順が厚遇を受けるのに反発し、四大名制の軋轢となる。

 ・細川髙国(管領)

 ・大内義興(管領代、山城守護)

 と、二人には、重職を与えることで、功労に報いている。義稙は、四大名の誰を贔屓するつもりもなく、義興も例外ではない。

 実際、尚順は、最初の御成を賜るという栄誉こそ得たものの、以後、京都では目立った活動がなく、京と分国を往復する生活を送る。実権を授けた二人に対し、尚順には栄誉を与え、義稙は、たしかにバランスを取っていた。

 ただ、これを不快とする義興の気分も理解できる。

 徳川家康なら、譜代大名とはなんといっても主従であり、多少の不平不満なら我慢を強いることができる。だが、大功のある外様大名の待遇となると、これは難しい。細川や畠山は、親藩に該当するだろうか? そもそも家康の場合、親藩の政治参加自体許さなかった。

 徳川体制というのは、主従関係を基軸に薄遇を基調とした。だから成立したのか。もっと言えば、栄誉を糧に貧窮を我慢させた。だから安定していたのか。ーー面白い。富貴欲得を度外視していた一面のある政権だからこそ、三世紀の安定を勝ち得たとは。

 さらに義稙は、義澄政権の重鎮であった伊勢貞宗を登用。訴訟案件の処理を任せた。

 これは、義澄と対決していた義稙としては、普通なら、貞宗を処分するところだった。だが、貞宗は義澄とともに近江に落ちることなく、在京して義稙を迎えた。これは、髙国が彼を説得したためだという。

 (おい、新九郎。毀誉褒貶が廻ったぞ)

 元来、温厚な人柄を見込まれていた貞宗は、従弟のことをかんがえたか、どうか。

 (ーーあやつの甘言に乗ったからこそ、十五年の栄爵を得た)

 果たしてそれが、よかったのかどうかよく分からない。そういう人物だからこそ、義澄・義稙政権で重宝されたのだろう。

 

 さて、軋轢を弥縫しながら、四大名並立制がスタートする。

 しかし、近江に逃れた義澄陣営は、永正六年(一五〇九)六月五日、三好之長率いる軍勢を京都へ進発させる。しかし、この軍勢は、せいぜい三千人というところだった。

 義稙は、細川、大内、畠山連合軍二、三万を招集。

 三好軍の籠もる京都郊外・如意ヶ嶽を包囲した。三好之長はさすがに不利を悟り、暴風雨の夜を選び撤退している。ーーその際、澄元と之長は、包囲軍を避け、阿波への脱出に成功した。

 もともと無茶な兵力差で、もとから阿波への脱出を図った作戦だったとも、四国にいる澄元の祖父・成之と連携しての挟撃作戦だったとも言われている。

 真意はともかく、三好之長はこの戦いで、琵琶湖を突っ切って洛外まで軍勢を寄せる、撤退となれば嵐の夜に紛れて引き上げる、さらにはおのれと主が単独行動してホームグラウンドである阿波までたどり着く、と、いかにも事慣れた采配をしているのが面白い。小細工、といっては失礼だが、戦術の策をたくさん持っているタイプかもしれない。

 だが、この如意ヶ嶽の戦いは、高く付いた。之長の子、三好長秀が、伊勢で兵隊を集めていたところ、北畠氏や国人衆に攻められ、弟や家臣ともども自害することになった。之長が満五十一歳、孫の元長が満八歳であり、まだまだ彼が粘らなくてはならなくなった。

 しかし、この応仁の乱以来の古豪は、永正十七年(一五二〇)まで長命を得るのだ!!

 たまらないじいさまである。


その後、澄元は、改めて、近江の義澄に断り、甲賀を去って阿波へ移る。

 「近江一国では、動かせる兵力にも天井がございます。阿波衆はかねてことがある都度京阪へ押し寄せ、情勢を打開した兵(つはもの)どもなれば、ここは一度、四国へ引き上げた上で、京を襲う軍勢を涵養いたしとうございます」

 阿波、伊予、讃岐は、瀬戸内海を介して盛んに他の地域につながっている。ーーそして、四国山地で隔てられた南境から、長宗我部という巨大勢力が崛起することになる。地勢であり、それぞれに栄光がある。

 

 右のように近江の義澄御所は、存在感を発揮している。ーーもしかすると、如意ヶ嶽の戦いは、義稙に京都を奪われたまま、為す術なく一年が経過し、弱腰でないことをアピールする必要があったのかもしれない。

 ここで、義澄は、おのれが健在であることをしめす新たな作戦をスタートさせる。

 義稙暗殺だ。

 


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