堺をもらう
義材の政治体制は、四人の在京大名を基盤とした。
・細川髙国(清和源氏義国流足利支族、八幡神族)
・大内義興(渡来人多々良氏)
・畠山尚順(清和源氏義国流足利支族、八幡神族)
・畠山吉元(同右、能登畠山氏)
ここに、もう何度になるか、スクロールアウト同盟の首脳部が結成される。
大内義興は、まず、この体制にも不満があったのではないか。
(大樹公を八年間戴いたのは、われら大内ではないか!?)
無私ではないのだ。ーー中国者の律儀、後世成立する令名に恥じないだけの厚遇をした。山口の西の京に、流浪の将軍がいる、それは大内と海の国の心尽くしで、日本史の美観だ。
そうやって、恩着せがましく言えば、衣食礼式に不自由させず、かつ、京都を奪還する兵力は、大内氏が出したものだ。ーーこの点、平安時代末期、北条時政や比企能員が、源頼朝に抱いていただけの打算を、当然義興は持ってよかった。
なんなら、義材の新体制では、管領、それを望んでもいいだけの恩義があるはずだ。
だが、義材は、そこまでの栄達を許さなかった。
義材も難しいのだ。功臣を重用するのは至極当然ながら、だからといって下手に栄達させれば、行く先、自分たち一族の脅威となる。この点、徳川家康が『三河物語』で大久保忠教にさんざん愚痴られているように、譜代にこそ吝嗇に報いなくてはならない。
ーー義材は、器量はどうだか分からないが、たしかに、その苦労の量では、徳川家康と同じ知見に達していてもおかしくないところがある。歴史学者の山田康弘氏は、風雪に堪え、放浪の果てに京都と将軍の位を奪還した義材(足利義稙)は、英雄と呼ばれるのに相応しいとおっしゃられている。作者も同感で、これだけの流謫と毀誉褒貶、どこか日本史離れして実感がないが、春秋戦国時代の王子のようなスケールの「冒険」を経ており、英雄と呼ぶほかない。
閑話休題、義材には、そういう事情がある。狡兎死して走狗煮られる、ではないが、大功がはなはだしいと顕彰することが難しいのだ。
管領、というのも難しい話で、もともと、三管領(斯波、細川、畠山)は、いずれも足利支族だ。要するに、足利一門でトップとナンバーツーを独占したい心理から成立していて、他の武家はてんから問題視していない。ーーこの点、かつては執権北条家と、室町では八幡神族・日野家と通婚し、例外を嫌った足利氏の事大主義と、根っこが同じだろう。君側も玉座も壟断する。
四大名制の人事に当たることで、義興は、あらためて、足利家の狭量を味わっただろう。知行なら弾んでやるが、トップは自分たちで占める。ーー等持院尊氏以来だ。
それよりなにより、依然、細川京兆家が重んじられているのが、義興には気に入らない。京兆家こそ、長年貿易戦争の仇であり、政元時代には日明貿易を二分した。朝貢貿易という一番利幅の大きい部分を蚕食していた怨敵だ。
(義尹〈よしただ、義材〉様は、今こそ、細川京兆家という獅子身中の虫を排するべきではないのか!?)
これは、彼のみならず、海の国の念願だった。山口や博多で倭寇貿易も賑わっているが、支那は、正式な国交で仕立てられた朝貢船には、体面に賭けて《《おごる》》のだ。
ーー今こそ、長年の競合貿易業者・細川氏を廃絶する!!
これこそが、義興にとって、口にはできないものの、もっとも大きな念願だった。
義材は、この四大名並立制を取ることで、かつての細川政権に依存した義澄の弊を避けるつもりだったという。至極もっともなやり口だが、それならそれで、長年自分を支えた義興に、どこか「特別に報いる」お主は格別だ、という待遇を用意すべきだった。
入京に関わる論功行賞では、細川髙国が管領とされ、義興は管領代とされた。
(バカにしてる)
そう思っただろう。ーー義材は、さらに、多年の貢献に報いようと、義興に「堺南荘」つまり、南半分
堺の港を与える!!
これは、法外な報酬だった。堺はこの頃には、もう、貿易港として第一等のものだった。京に近いこの土地は、織田信長や秀吉も食指を伸ばした黄金の港である。
しかし、義興は、これを辞退した。
ーー不可解極まりない。海の国云々の陰謀論を抜きにしても、大内氏が巨大な貿易業者なのは紛れもない。
堺が欲しくはないのか?
後世、この都市が占める位置を知っている人間としては、そう思わざるを得ない。
ところどころで、大内氏は、天下を逃すミスをしている。ーーこのとき、堺を我がものにしていれば・・あるいは、種子島に先んじて伝来した鉄砲を改良・生産していれば!!
堺の価値には、当然、大内義興も気づいていたはずだ。「東洋のベネツィア」であるこの都市を手に入れなかったのは、それほどまでに、おのれの待遇に不満を抱いていたからなのか?
まだ、大内氏は、貿易に関して、彼らがもっとも欲していた「日明貿易」正使の独占権をもらっていない。四大名並立制にあって、まだ殊勝にしていた方がいいと判断したのか。
当時該当地域は、相国寺崇寿院領だった。相国寺は室町御所の隣に三代義満が建てた巨刹で、京都五山(五つの禅宗寺院)の第二位である。足利将軍家、伏見宮家ゆかりの寺で、公武にとって大きな存在感のある寺院だ。この寺領を頂戴するのは、それこそはばかりがある。しかもこの相国寺、応仁の乱の最中に細川方の陣地とされていたため、西軍の攻撃を受けて全焼している。この攻撃には義興の父・政弘も参加していて、ますます、大きな収入源である堺南荘をもらうのは遠慮してしまう。
右の思惑もあり、義興は泣く泣く堺南荘を辞退したのだろう。「何事も元のように寺社本所領を返付されよ」そう言って、相国寺に返還してしまった。
こうして書いてみると、つくづく、律儀者である。
義材も、義興の心中を察したのか、代替に、山城国守護職に彼を任命している。山城は無論京都の所在地で将軍家の重臣にしか与えられたことのない要職だ。
義興もこれはありがたく拝領している。




