伊勢新九郎異聞~細川勝元天狗之振舞~
さて、将軍義澄が追われ、追われつつ、近江で存在感を発揮している。
ーーこうなると、伊勢新九郎盛時の命運にどう影響したかが気になってくる。
新九郎は、明応の政変で将軍になった義澄方として、義稙方の諸将を襲い、文亀元年(一五〇一)には小田原城を治めるところまでいった。当たり前だが、小田原は箱根山の東麓に位置している。新九郎が奪った頃の小田原城は、まだまだ金城鉄壁の様相は呈していなかっただろうが、箱根の東側に拠点を設けられたのは、大きかった。ーー橋頭堡というやつだ。
そして、依然、新九郎は今川家の重臣であり、当主氏親の後見役として、西への勢力拡大を手伝っている。遠江、さらに三河中部まで今川領を広げ、徳川家康の高祖父・松平長親によって進軍が阻まれたこともすでに述べた。
さらに、この頃、文亀元年(一五〇一)には伊豆平定の名分である足利茶々丸も自害に追い込んでいる。
足利義尚奉公衆上がりの高級官人は、歴とした伊豆の戦国大名になっていた。
ここから、新九郎は、東へ、相模方面への侵攻を本格化させる。すでに箱根を越えたところにある小田原城を手に入れている。
ここで、まだ存命だった室町の天狗・細川政元が策動する。ーー東下してもしなくても迷惑な男である。新九郎は、扇谷上杉家と結び、山内上杉家とは対立している。山内上杉は、伊豆情勢にも介入して茶々丸を支援していたが、その伊豆を平定され、さらに相模西部を切り取られると、後ろ盾を得ようと、義澄・政元の陣営に接近する。
これに、政元が乗った。
(おいおいおいおい)新九郎も、目を剥いただろう。これまで新九郎は、義澄─政元陣営の尖兵として、義稙─大内義興─足利茶々丸─山内上杉家陣営との戦いに明け暮れてきたのだ。
それがにわかに、この翻転である。(ーー伊豆に専心するようにしたのは正解であったわ・・京は百鬼夜行じゃ)
明応九年(一五〇〇)に義稙が周防に下向し、その脅威が遠ざかったと義澄が自ら政務を執り、政元と対立している時期である。
政元の山内上杉家取り込みも、義澄に対抗する施策だったのかもしれない。義稙─大内義興─足利茶々丸ら同盟者が存在感を失ったり、死去している。孤立している山内上杉家、つまり上杉宗家を取り込み、関東政策におのれの意を反映できるようにする。
政元は、今川家と対立している遠江守護・斯波義寛と山内上杉家の連携を取り持った。ーーと、いうことは、東西から斯波家と山内上杉家に挟み打ちにされる危険が出てきた!!
(あの鳥狂いめがああああああああああーーーーーーーーー!?)
テッペンカケタカ、と、時鳥の声を聞いているのに、天狗の高笑いに邪魔される。
ここで、新九郎と今川家は、重大な決断を迫られる。このまま中央に翻弄され、されるがまま東西から攻め込まれるのか
いっそ、京都を見限って、足利義稙、そして大内義興という対立陣営に転ぶか、だ。
(ーー今の京都は危なっかしい)
そうとは思うものの、これは、躊躇いがついてまわる決断だった。ーー単純に、義稙方に属する、ということではない。義稙と義興が京都を奪還する目はまずなかった時期なのだ。
つまり、京都政局とは、向後、独立してやっていく。
単純に、周防の流れ公方を背景として、威光として利用しつつ、もう京都勢力とは、中央とは決別して
地方を切り取り地方を経営し、独立独歩の在野勢力としてやっていく。
足利将軍の天下から離反する、ということだ。
(ーーおれの春秋では、これが正解だったかどうか占えぬ)
そうとは思いつつ、この高級官僚上がりの男は、心沸き立つものを覚えていた。自分の一族が、京都から遠く離れたこの地で、さらに東で、室町体制に背を向けた勢力としてやっていくのだ。
これまでの人生で、最大の飛躍となるであろう冒険だ。
(箱根の険は越えた)後世、北条姓で呼ばれることになる男は、決断した。
いざ鎌倉。
関東の王座たる都へ。
後北条氏の祖は、改めて目標を定めたのだ。




