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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
流れ公方の帰還
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フレグ・ハーン

 さてこうなると、周防の義材も、動きを見せる。細川家の内紛は、六月末には、周防に伝わった。だが、義材も、十年以上の放浪生活で、浮ついたところがなくなっている。彼は情報を信じず、さらに続報が入って政元の死を信じたのちも、慎重だった。義興や周囲の人間はこれを祝ったが、義材は冷淡な顔をしていたというから、筋金入りだ。

 翌閏六月に、幕府は綸旨を得て、周防の大内義興を討伐するよう安芸や石見の国人衆に命令している。

 (アア、動揺している)

 これで、ようやく、義材は、今が好機だと認めた。義興とともに、上洛の準備に入る。クーデターを起こした澄之派が全滅するのを尻目に、年末に動員令を発し、周辺国の人数を集める。

 義興とともに、鞆(とも、広島県福山市鞆町)まで進んで、なお、情勢を観望した。

 大兵力を擁している。

 輿望を集め、その上で、待ちに入り、牽引力を発揮しながら情勢の変化を見る。

 こういう構えに入った人物は、強い。

 翌永正五年(一五〇八)正月、義材は義興とともに、大船七十艘の艦隊を率いて周防三田尻を出航、二十七日に大畠に入る。二月二十二日には安芸の蒲刈へと移動する。

 三田尻(山口県中部)→大畠(山口県西部)→蒲刈(かまがり、広島県中部、呉の辺り)

 さらに、蒲刈にて一ヶ月滞在。

 じつに、遅々としている。この鈍行の理由は、豊後の大友氏を伺っていたためだ。

 そして、こちらの方が重要だが、細川家の混乱を衝いて一気呵成に攻め込めば、かえって、内紛を棚上げにして、彼らが結束する可能性がある。

 『モンゴル帝国、とくに方面軍(帝国(ウルス))のトップ層には、これができる人材がいる。「フレグの征西」とよばれる一大ムーブメントでイスラム世界をたいらげたフレグ・ハンは、フビライの弟だった。ニザール派の教主ルクヌッディーン・フルシャーを投降させ、アラムート要塞を、ついでバグダッドを陥落させ、アッバース朝を亡ぼした。

 『かれがやったことは、一二五三年にモンゴル高原を出発し、一二五五年秋まで、各地で狩猟や宴会をたのしみながら、サマルカンドにゆっくりと行軍することだった。そうこうしているうちにあいさつにきたモンゴル諸家や諸侯の兵員と合流し、大軍団を形成する。サマルカンドではライオン狩りに興じ、ケッシュではイラン総督の熱烈な歓迎を受けた。

 『フレグは、大軍団を背景にイランとその周辺の王侯に参陣と軍需物資の供出を命じた。二年をかけた行軍でモンゴルの軍容を誇示した結果、アナトリア半島のルーム・セルジューク朝やグルジア、アゼルバイジャンからも王侯が参集した。』  (拙稿、アンゴルモア戦記)

 ーーかつて、フビライの弟フレグ・ハンが、暗殺教団やバグダッドを征服したやり方と同じだ。

 日本でこれをやったのは、板垣退助しかいないとかんがえていたが、足利義材もやっていたのか。

 軍事と政治が合致した機動(マニューバ)だ。このレベルになると、軍事行動が政局を動かせる。

 

 ーーはたして、情勢は、義材の優位に転び始めた。

 

 永正四年(一五〇七)八月の遊初軒の戦いにて、九条家出身の澄之派は壊滅。

 阿波細川家の細川澄元は、義澄に謁見して、京兆家当主になった。

 しかし、阿波家家宰の三好之長が専横を働き、京兆家家臣団の反発を買った。もともと京兆家からすれば、分家筋の執事でしかない之長など笑止なのだが、それにしても、ヘイトを集めやすい。

 これはどこかで司馬遼太郎が書いていたことなのだが、阿波の方言(徳島弁)が現代の京都弁に与えた影響は小さくないのではないか、という文章があった。細川家は阿波や讃岐を押さえ、室町初期から阿波衆の兵力を背景に政局を動かした。彼ら阿波人が京都の言語文化になにも影響を与えなかったとはかんがえにくい、というものだ。

 ならば、そういう下地があった上で、いざ、阿波細川家が京兆家の当主を出せば、これは本家の乗っ取りのように感じられ、同じ京都人の九条家澄之よりも抵抗が大きかったのかも知れない。

 三好、は、地名姓ながら、三善氏が本姓だろう。三善氏には百済姓と漢族姓があるが、つまり、渡来人姓であり、渡来人カラー、遺伝子的な割合の強い四国らしい。小笠原氏末裔を称しつつ、三善の血筋も入り、その点でも、どこか異邦人めいていたのではないか。

 ともかく、三好之長の専制を嫌う畿内勢力は、小さくなかった。

 それが、今度は、野州家の細川髙国のもとへ、結集していったのだ!!

 

 すごいものである。細川家は、畠山家や斯波家の家督争いを巧みに操作することで、政界を遊泳した。そんな彼らは、他の武家より、内紛に陥るのが遅れていたが、それがようよう、管領職を独占する位置にまで上り詰めたことで、顕在化した。

 満ちた月は欠けるしかない。

 亢龍悔いありだ。

 (おおおおおおおーーー)

 こうなると、野州家髙国にも野心が興ってくる。もともと、細川殿の変で阿波家澄元に味方したのは、澄之澄元の争いに乗じて、跡目争いから脱落したおのれの位置を高めるためだ。

 それが今、阿波家(讃州家)の、三好之長の不人気を背景に、おのれに跡目相続の目が出ている。

 髙国はこれに乗じた。彼は、姉が畠山尚順に嫁いでいて、その援軍を得ることもできる。

 髙国は、仁木髙長、伊丹元扶(もとすけ)、内藤定正ら、京兆家家臣と結んで、京に侵攻した。それぞれ足利支族、利仁流秦氏、秀郷流千晴系秦氏である。細川氏そのものが足利支族であり

 細川澄元と、渡来人カラーの三好之長を含め、スクロールアウト同盟がまた内輪もめだ。首脳部が秦氏ばかりなのだから、クーデターも、秦氏ばかりになる。鎌倉時代の内乱をやっていた連中も苦笑しているであろう。

 先だって、澄元は、反阿波家の旗頭になっている髙国を、伊賀へ追放している。そこから捲土重来

 永正五年(一五〇八)四月九日、髙国軍は京都を陥落させ、細川澄元と三好之長は、甲賀へ逃れた。

 

 甲賀、という地名が目立つようになった。伊賀甲賀は、忍者物語では対立する勢力のように描かれるが、実際は、甲賀の一部が伊賀、という関係だ。六角行髙に味方した甲賀衆の頃から、足軽のように金銭で雇われ、足軽以上に機敏な偵知や破壊工作を行う集団が、街道が通り人が行き交う地勢上涵養されてきたのだろう。

 一方で、東海道が通っている。もう一方で、鈴鹿山脈からつづく山の多い場所だ。こういう入り組んだ地形では、斥候や工作に長けた地侍を出す。山地の閉塞、街道の開放、相反する地勢が交流したところに、甲賀衆という万能の傭兵が生まれたのだ。

 こういう場所が、京都のすぐ近く、近江にある。近江、というのは・・ーー


 ともあれ、髙国が京都を占めた。細川家の重臣会議が開かれ、髙国が惣領に選出される。髙国流と澄元流、二分された細川家の抗争を「両細川の乱」と呼ぶ。これが二十年以上続く。

 さて義材は、大友氏の動向を確認した上で、永正五年(一五〇八)三月十六日、安芸国蒲刈から出航する。大船団は四月十六日に備前国牛窓に到着。ーーここには仲哀天皇にまつわる牛鬼伝説がある。

 

 大内の船団が近づくと、京都は混乱に陥る。

 髙国は、京兆家の惣領となったものの、家中は一つになっていない。昨年六月に政元から澄之へ、八月に澄之から澄元へ、そこから阿波勢への反感が高まり年が明けて四月に髙国へ、惣領が入れ替わっている。

 阿波細川家澄元は甲賀に健在であり、まだ影響力がある。そして煩を避けて省いたが、そもそも、野州家髙国と、その岳父、典厩家(テンキュウ家、典厩は左馬頭・右馬頭の唐名)の細川政賢と、どちらか当主に相応しいか目踏みされた時期もあったのだ。政賢は、以前、越中公方だった時期の義材と義澄・政元の和睦に徹底反対し、破談へ追い込んだ過去がある。

 義材・義興の船団が京都に迫ると、髙国をせっついたことであろう。

 (ーーそうはいっているが、いざとなれば、義材に付きはしないか?)髙国は、政賢を疑ってもいただろう。

 野州家、典厩家、讃州家(阿波家)

 (これでは戦えぬ)

 そう、音を上げた。そもそも百戦錬磨であり、なぜか山伏の修行までしている政元とは、気勢が違う。

 髙国は、義材への降服を決断した。

 これを受けて、義澄は京都から逃亡。

 六角行髙の庇護を受け、水茎岡山城(近江八幡市)に入った。

 

 四月末、大内氏の船団が、堺に到着。髙国はこれを出迎え、五月五日、髙国を京兆家当主とする御内書を得る。

 六月八日、義材と義興は、髙国を引き連れ、堺から入京。

 七月一日、征夷大将軍再任の宣下を受け、室町将軍に返り咲いた。一戦もしていない。

 

 核兵器と同じで、軍事力は存在感(プレゼンス)とした時、もっとも効果を発揮する。

 

 

 

 


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