細川殿の変~しまらぬ一族~
まず、前段階として、永正三年(一五〇六)阿波細川家から政元の養嗣子となった細川澄元が、摂津守護職になる。国元の阿波勢を入京させると、これが畿内の軍事力として重きを成すようになった。
阿波と京阪情勢は直結している。
そして、彼らを率い、政元に重用されたのが、阿波細川家家宰
三好之長である。
ーーついに、である。有名な長慶の高祖父だ。
三好氏は、阿波の小笠原家庶流から出た国侍で、之長の父の代には、阿波細川家に仕えていた。伊勢氏といい、礼法の家だ。ナンバーツー待遇を受けやすい。
知勇兼備の将と謳われた之長は、応仁の乱で、主君とともに上洛した頃から、その才腕を振るった。畿内で頻発する一揆を操作し、味方につけたり扇動したりした。
澄元とともに上洛し、京兆家に仕えるようになっても、辣腕は相変わらずで、軍政両面で阿波勢とともに活躍、政元の覚えめでたくなる。ただ、この一族の弊風である傲岸さが顕著になり、京兆家内衆(重臣)らとの対立が深まっていた。
そして、永正四年(一五〇七)六月二十三日
細川殿の変が起こる。殿、というのも妙な政変の名前だ。
湯殿で発生したのだ。
天狗の格好をし、空を飛ぶことを本気で目指し、女人を遠ざけ修行に励んでいた細川政元が、この日、魔法を修すると言って、邸宅の湯殿に入る。
ここに、祐筆の戸倉氏が突入、政元を討ち取った。彼の背後には、九条家から入った養子・細川澄之を擁する内衆たちがいた。狙いは澄之を立てるとともに、阿波衆を排することだ。
翌日、澄元(阿波細川家出身)や三好之長の屋敷を攻撃、近江へ敗走させる。
ここに、九条家出身の細川澄之が立てられ、京兆家当主となった。
じつは、政元には、もう一人、養子がいた(この頃には養子縁組が解消されていたという説もある)
細川髙国、という人物で、細川野州家の出身だ。野州、というのは、下野のことで、先祖が二代連続で下野守を名乗ったことに由来する。この髙国は、澄元を政元の後継者と認め、相続に貢献する。彼の岳父・細川政賢、さらに政元を嫌い離反した畠山義英も、この方針で合意していた。
細川政元を討ち取った内衆に
・薬師寺長忠(薬師寺元一の弟、政元の命で元一を攻め滅ぼしている)
がいる。彼を元一の子・国長が、髙国の家臣となることで大義名分を得て滅ぼした。
さらに、髙国らは、同内衆の一人
・香西元長
の居城嵐山城を攻め落とす。
そして八月一日、近江国甲賀郡の国人らを味方につけた三好之長が、髙国勢と合流して京都・澄之の屋敷「遊初軒」へ攻め寄せる。遊初軒は陥落し、澄之自害。香西元長も自害し、クーデター派は滅びた。
じつにあっけない。二ヶ月で滅んだ澄之派もそうだし、政元も、風呂で討たれるとは。
越前の泥田で死した新田義貞を思い出す。
澄之が自害した翌八月二日
澄元が、将軍義澄に拝謁、細川京兆家当主となる。




