決裂
伊勢新九郎という思わぬ寄り道を挿んだ。
そろそろ、義材と義澄の対立と抗争にもどっていこう。中央情勢が再び新九郎に降りかかってきたとき、また、北条早雲になる男を追えばいい。
明応の政変によって、細川政元と伊勢貞宗が動き、十一代将軍足利義澄が立てられた。
廃立された十代将軍足利義材は、幽閉先を逃れて北陸へ脱出、越中公方となり京都をうかがう。するうち、かつての同盟者畠山政長の子・尚順が、畠山基家の軍を破り、畿内南部を手に入れる。京都は緊張状態に陥り、彼と挟撃すべく義材も軍を進めた。だが、朝倉貞景は政元との対決に乗り気ではなく、兵を出さない。数百騎で京を目指した義材の軍は、かつておのれが討伐した六角行髙の軍に奇襲され、敗退、尚順と連携しての京都奪還作戦は水泡に帰した。
義材は、周防の大内義興を訪ね、ここでは厚遇される。元西軍の諸大名に呼びかけ、京都奪還を訴えるが、先の戦いに勝利した政元の権勢は堅固で、手出しできずに数年が経過する。
『そうこうしている内に、畿内で動きが見えてきた。明応九年(一五〇〇)九月の戦いで、政元は再び畠山尚順を大敗させ、京都市民を安堵させた。ーー戦いの才能は、小太郎義貞に通じるものがある。
だが、畿内の脅威がなくなると、別の問題が発生する。
十一代将軍義澄が、自ら政務を行おうとし、政元と対立したのだ。
『文亀元年(一五〇一)正月、二人の不和が高じて、月末になっても政元は出仕しないという事態になる。
『いくら対立が続いているとはいえ、幕府は、政元なしには運営できない。義澄は政元を慰留するが、彼は帰京しなかった。仕方なく、義澄は、当時政元が滞在していた宇治・槙島城に自ら足を運び、政元を説得。
これで、ようよう政元もかんがえなおし、四月二十五日に上洛した。
『その後、二人はまた、百四代後柏原天皇の即位礼費用の献上をめぐって対立する。
すると、八月四日、今度は、義澄の方が、隠居すると言って金龍寺(京都高倉)に出奔、今度は政元が慰留に乗り出す。
・金龍寺にやって来た政元に、義澄が七ヶ条の要求をつきつける。そこには、義材の異母弟義忠の殺害が含まれていた。
『・政元が七ヶ条の要求を容れ、足利義忠を殺害する。
あまりにしょうもなくて、箇条書きになってしまう。義澄は、これで政元の退路を断ったつもりだっただろうが、将軍家の人間がこうも簡単に殺されるようになってしまってはどうしようもない。』
これが、新九郎が茶々丸を自害させ、小田原城を手に入れた時点での政局である。
このグダグダに乗じたのが、北条早雲、ということだ。
・八月四日、義澄が金龍寺に籠もり、やって来た政元に七ヶ条の要求を突きつける。
・八月六日、政元が要求に応じ、足利義忠を殺害する。
もう少し悩め、と、言いたくなる。ーーどうも、本稿の史観からすると、新田義貞も細川政元も、あの血筋は足利に祟る。
政元の対応に気を良くした義澄との間で、しばし、二人の不仲は改善される。
文亀三年(一五〇三)五月、政元と義澄の関係に、新たに、摂津守護代・薬師寺元一という人物が絡んでくる。元の字は政元の偏諱、彼とは男色関係だったという。畠山尚順蜂起の際、河内で尚順を破った猛将だが、彼が、細川京兆家と阿波細川家とのパイプ役になる。
阿波細川家当主に細川義春という人物がいた。義の字は義材からの偏倚で、彼は、京兆家政元に対抗する人材として義材から見込まれていた。
当然、政元とは対立する。
義春自身は明応の政変の翌年末に没している。だが遺恨は残り、薬師寺元一は、政元の命で、義春の次男澄元を、政元の養嗣子にすべく奔走、成功させた。
これで京兆家と阿波細川家との不和は解消されるはずだった。
だが、政元の養子には、九条家出身の澄之という人物がすでにおり、家督相続も済ませている。ーー九条家である。日野家出身の本願寺宗主一族、政元も日野富子亡き後(一四九六年没)も闇将軍・日野家と手を結んでいた。九条家の政略婚の方針が分かる。
つまり、阿波細川家の澄元と九条家の澄之、政元の後継者が二人になってしまった。
これが「永正の錯乱」という細川家の内紛の伏線となる。
永正元年(一五〇四)閏三月、昨年細川澄元を養嗣子にすべく奔走した寵臣・薬師寺元一を、政行が突如、摂津守護代から解任。いきなりな裏切りである。ーーこの間の事情はよく分からないが、薬師寺元一は、満二十六歳を過ぎている。
江戸時代の陰間(男色)は、二十歳にもなれば、美少年役では通じない。ーーそのあたりの痴情のもつれもあったのではないか。
そもそも、政元が変な修行に凝って女性を近づけず、子をなさない。だから、堂上家や一族から養子を取り、ややこしいことになるのだ。女人を近づけない分、男色にも本気だっただろう。
(ちょっと、乱暴すぎるぞ)
そう思ったのか、義澄が摂津守護代解任にストップをかける。元一は喜び、馬や太刀を献上している。ーー色恋が絡んでいるだけに、この間の憎悪は強かっただろう。
その軋轢を証明するかのように、尋尊大僧正の『大乗院寺社雑事記』には、同年六月二十六日に「公方(義澄)御進退、毎事細川(政元)の意に違う」毎度、二人の意見が食い違っている、と、記載されている。
針のムシロの心地だったのか、薬師寺元一は、九月
政元を廃し澄元を立てんと、摂津で挙兵した。だが、政元の軍に攻められ、九月十九日に立て籠もっていた淀城が落ち、捕らえられる。翌二十日に自害させられた。ーーこのときの元一の辞世が、痴情のもつれ説の根拠だ。
地獄にはよき我が主のあるやとて 今日おもひたつ旅衣かな
元一は「我が主」を「若衆(男色の恋人)」と詠むように注文を付けた。つまり、政元との関係を指摘していて、その上で「お主の恋人が地獄で待っておる、我が主よ、早う来い」と政元の死を願っている呪いの歌なのだ。
(元一めには遺恨あるが)と、元一の反乱に乗じようとしたのは、畠山尚順だ。紀伊から和泉へと兵を進めたものの、乱が早期決着したので、間に合わなかった。
さて、こじれていく義澄と政元の関係は、永正二年(一五〇五)正月、祝いの酒宴で、悪化する。出仕してきた政元と対大名の政策を巡って激しい口論になり、激怒した政元が勝手に退出する事態になる。これでよほど険悪になった。六月になると、また政元が「遁世する」と言い出す。(もう、勝手に修行に行け)そう言いたかっただろうが、義澄は、今回も慰留し、その後、政元が東国に下向するなどとたびたび言い出し、都度義澄が引き留めるやりとりが持たれる。ーーこんな人間が東国に来た日には、伊勢新九郎も苦慮しただろう。
畠山尚順の、薬師寺元一と連携しようとした動きは失敗した。ーーだが、細川政権の不和が透けて見え、尚順は、畠山義英に接近する。
他ならぬ、尚順が自害へ追い込んだ畠山基家の嫡男である。基家が政元と連携していた関係上、義英も政元の傘下に収まった。いや、事実上傀儡だった。
細川家が内紛で揺れ始めたのを見て取ると、義英は、この関係を終わらせることを決意する。尚順と和睦し、河内国を半国ずつ分け合う。
当然、これが、政元の勘気を買う。
(畠山家は、分かれていてこそ御しやすい)そもそも、基家を支援していたのも、同じ三管領家である畠山家の力を削ぐ工作だ。
政元は、畠山義英の籠もる誉田城(ほんだ城)を攻めさせる。ーーこの間、義英は、周防の義材へ、以後尚順とともに義材の上洛が叶うよう尽力すると書状を書き、感状を贈られている。
(畠山が一つになったか)思えば、八代義政の時代に、畠山政久と義就が争って以来ではないか。
この期を逃すまいと、大内義興と相談し、義材は兵を出す。しかし、山口から周防府中まで進んだところで、依然、畿内が細川一族によってガッチリ固められていることが明らかになる。
義材を遇する義興の厚情は紛れもないが、さすがに、父政弘ほど打ち込んではいない。
細川一門が、畿内を譲らじと団結している。分国としては数ヶ国程度だろうが、これを抜くのは容易ではない。
畿内に力を注げば、北九州の大友が動くのは明らかで、大内氏としても王座から動くわけにはいかない。
「義尹(よしただ、義材、北陸で改名)様。真事、残念にございますが・・」
義興も、そう切り出さざるを得なかった。まだ、中国から、長途上洛できる情勢ではない。
(十年? 幾年〈いくとせ〉経った・・)
義材も悄然とする。
挙兵上洛は、見送られた。
ーーその後も、義澄と政元、京兆家澄元と澄之は、時折軋轢を生じながら、どうにか、小康状態を保っていた。
この均衡が破綻するのは永正四年(一五〇七)六月二十三日
細川政元が、家臣の反逆に遭い、突如討たれるのだ。




