伊勢新九郎異聞~中央と地方~
『北条記』によれば、新九郎は、かねてから、大森藤頼に進物を贈り、よしみを通じていた。扇谷上杉家家臣、小田原城主だ。そしてある日、新九郎は箱根山で狩りをするので領内に勢子を入れさせてほしいと頼む。大森藤頼は快諾した。ーーその夜、千頭の牛の角に燃える松明をくくりつけた「火牛」を突入させ、勢子に扮した豆州の兵がそれに続く。火牛の勢いで、何万もの兵が押し寄せてきたと錯覚した小田原城は大混乱に陥り、新九郎は楽々とこれを手に入れてしまった。
ーーまあ、春秋戦国時代、斉の田単が用いた「火牛の計」を下敷きにしたフィクションだろう。
小田原城奪取は明応四年(一四九五)とされているが、明応五年(一四八六)に新九郎の弟・弥二郎が大森藤頼と協同で小田原城防衛に当たっている記録があり、実際には、それ以降にずれ込む。文亀元年(一五〇一)に、新九郎が小田原城下の宰領をしている文書があり、この頃には、小田原城を手に入れていたのは間違いがない。
またこの文亀元年(一五〇一)には、三河中央部まで進んだ今川家の拡張運動も、中断している。
松平長親との戦いに敗れたのだ。
徳川家康の高祖父である。
松平方の先陣には、酒井、本多、大久保という「安祥譜代」最古参の譜代大名らが、名を連ねている。十六世紀が、戦国時代に本格的に突入する画期なのだろう。
この時期の新九郎の活躍は、単なる彼の領土欲から発したものではない。近年の研究では、足利義材と足利義澄、明応の政変の対立構造が地方に持ち越された結果だということが判明している。
義澄は、その腹心に細川政元と伊勢貞宗がおり、伊勢氏のつながりで今川氏親が、そして豆州の英雄となった宗瑞新九郎がいる。これに対し、新九郎が甲斐で争った武田信縄、新九郎が奪う前に小田原城を陥落させた山内上杉家当主・上杉顕定、彼らは、足利義材の陣営で、要するに、新九郎の活動が容認されていたのは、義澄陣営として、義材陣営と抗争していたからなのだ!!
中央の尖兵・伊勢新九郎盛時。
それが、この時期の新九郎の真実なのだ。そもそも、新九郎が小田原城奪取に走ったのも、大森藤頼が義材陣営に寝返ったためだ。
ーーもし、中央の政局が、このまま、義澄陣営で固定されていれば、ついに、新九郎も中央の軛から脱さぬまま終わったかもしれない。
そうはならなかったのだ。




