伊勢新九郎異聞~東海中央不即不離~
今川家で起こったこの政変に対しては、義尚もなにも言っていない。伊勢新九郎が、中央の意向を汲んで活動していたとされる由縁の一つだ。
作者は、果たして、新九郎が中央からの刺客のように振る舞っていたかどうかは分からないが、少なくとも、周囲の了解を十分取り付けた上で、この行動に踏み切ったとかんがえている。
ーー梟雄の顔をしてきたではないか。
小鹿範満討伐の功績で、新九郎は伊豆に近い富士郡の土地を与えられた。この頃の彼は、守護代が出す「打渡状」を発行しており、駿河守護代の位置にいたことがわかる。
そして、足利政知の直臣、おそらく奉公衆となり、出仕。
伊豆の領地を与えられている。
堀越公方との主従関係は、延徳三年(一四九一)四月、足利政知が没したことで終わる。
新九郎は、翌五月に、十代足利義材の申次衆として、幕府に復帰している。
足利政知に仕えていた三年間、新九郎は盛んに貞宗に連絡し、関東征伐再開を訴え、また、義尚の没した後は、義澄を次期将軍にすべく働きかけていたのだろう。
だが、この矢の催促に対する貞宗の態度は、いかにもこの温厚な人物らしくて、作者には好ましく映る。
もともと、六角氏討伐では義尚に疎んぜられていたわけだが、義尚が没し、つづいて義政も没すると、延徳二年(一四九〇)に、家督と執事職を、嫡子貞陸に譲って、隠居するのだ。
親戚のうるさい要請に、聞か猿を決め込んでいるようだ。ーーそして『貞宗聞書』『伊勢兵庫頭貞宗記』といった著作活動に取りかかる。貞宗は諸芸に優れ、これらの書物は有職故実書として大きな価値を持つ。礼法の伊勢家の顔を充実させたのだ。
ーー新九郎の運動の成果は、しかと確認することができない。
ただ、この穏やかな隠居生活に入っていた貞宗が、明応の政変が起こったときには、政元や日野富子に求められ、義澄の後見人のような立場になるのだ。
父・貞親が斯波氏の内紛に介入したり、義視の殺害を計画したときには、泣いて諫言し、かえって牢に幽閉されたという人物である。
まるでちぐはぐな明応の政変への参加は、新九郎の度重なる要請が、この人物の心に何らかの影響を及ぼしていた証左かもしれない。
さて、幕臣として京都で生活していた新九郎だが、と、書き出して、ふと気づいた。
新九郎は、京都から駿河、伊豆から京都、と、結構な距離を旅しているわけだが、そういうアクセスが可能だった、ということは、まだまだ室町幕府が健在で、道中に困難は多かっただろうが、決して、外国から外国へ、つぎつぎ国境を越えていく、というようなものではなかった、ということではないか。
新九郎の行跡に注目すると、室町幕府の淡い陰影の部分を見透かすことができる。
まだまだ、足利は支えていたのだ。
再び、さて、幕臣として京都で生活していた新九郎だが、堀越公方家で起こった内紛に巻き込まれていく。
足利政知には、三人の男児がいた。嫡男の長子・茶々丸、次男の義澄、三男の潤童子だ。義澄は、次期将軍候補とし、三男の潤童子に堀越公方を継がせる。その上で、関東征伐を再開し、鎌倉を占めて鎌倉公方を出す。それが政知の野望だと、すでに述べた。
長男の茶々丸が余るわけだが、彼は廃嫡され、潤童子が嫡男とされた。一説では、潤童子の母親、茶々丸には継母となる円満院が讒言したという。牢に幽閉されていたともいわれているから、深刻な対立である。茶々丸は、さらに奸臣の言を容れ、いわれなく筆頭家老を含む重臣らを殺害したことから、家臣団の反目を買う。家臣団は、隣国の駿河今川家に救援を要請。堀越公方家と今川家が、協力関係にあったことが透けて見える。その緩衝地帯に位置していたのが、伊勢新九郎盛時なのだろう。
こうして、足利茶々丸と今川家が対立する。新九郎盛時も、伊豆の領地を茶々丸に没収されており、他人事ではない。再び駿河に下向、茶々丸との戦いに入る。
ーーここまでが、既往の史観である。
しかし、近年の研究では、新九郎盛時の行動には、中央情勢が関連していることが判明している。この場合も、そうだ。
明応の政変が、足利茶々丸との戦い、新九郎の伊豆打入に、抜きがたく関わってくる。




