↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
北条早雲伝上
PR
44/82

伊勢新九郎異聞~豆州の野望~

 足利政知は、扇谷上杉家とともに、龍王丸の対抗馬である小鹿範満を推していた、そう書いた。

 だが、長享元年(一四八七)には、情勢が変わっている。扇谷上杉家が駿河に派遣していたのは、家宰の太田道灌だ。だが、前年に、主君上杉定正に暗殺されている。足利政知は、駿河にやはり家宰の上杉政憲を派遣していたが、彼とは都鄙和睦(一四八三)以来不仲になっていた。

 都鄙和睦は、室町幕府と古河公方との間に和平が成立した事件だが、政知に和議の受け入れを迫り、室町幕府との交渉に当たったのが、家宰の上杉政憲だった。都鄙和睦が成った結果、関東征伐は打ち切りにされ、政知には伊豆一国が割かれた。ーー公方と呼ばれ、鎌倉に打ち込んで関東の王になるはずだった政知が、伊豆の国主にまで落魄したのだ。

 以来、政知は上杉政憲を憎み、駿河に進駐している彼の勢力にも冷淡になっている。

 

 というより、新九郎が今川館に打ち込んだ長享元年(一四八七)十一月の時点で、おそらく、上杉政憲は死亡している。堀河公方家内部のお家騒動で、長男の茶々丸が廃嫡される。これを諫めるために自害した、とある。これが長享元年のことで、日付こそないものの、おそらく上杉政憲は死去していただろう。

 

 上杉政憲との関係と今川家の後継問題は別だとかんがえることもできるが、新九郎の動きに対して、政知は沈黙し、動きを見せなかった。それどころか、事件の後、新九郎を直臣として召し抱え、伊豆に領地を与えるのだ!!

 今川館への打ち込みを黙認していた、としか思えない。新九郎の今川館急襲、上杉政則の死、太田道灌の暗殺、これらは同時期に起こっており、関連を指摘する研究者もいる。

 今川家の龍王丸継承は、堀越公方勢力の既定路線だったのだろう。

 

 都鄙和睦によって、関東征伐の夢は潰えてしまった。ーーだが、義尚の死後、義澄が後継者候補となり、義材と争う段で、彼が関東征伐の夢を再び抱き、義澄を次期将軍とすることで、征伐を再開し、おのが一族が堀越公方から鎌倉公方になることを目指した。これも語った。

 義尚の死は、長享三年(一四八九)三月・・まさか、この時点でそれを見越していたわけでもないだろうが、元来、病弱な人物である。そしてどのみち、都鄙和睦以降、まずは中央の政局に参入しなければ、関東征伐は再開されないことになってしまった。

 以前の、文明年間、一四七〇年代の段階では、小鹿範満を推し、彼と友好関係を築こうとした。

 しかし、長享元年(一四八七)では、駿河一国に拘泥している場合ではない。そのはるか西の、京都へ働きかけなくてはならない。

 

 そこで、伊勢新九郎盛時だ。

 

 龍王丸(今川氏親)の叔父である彼は、政所執事・伊勢貞宗の従弟なのだ!!

 

 中央情勢に働きかけるパイプ役として、好適ではないか!!

 

 だから、政知は、なんなら上杉政憲を暗殺し、自害という体にして、新九郎盛時の今川館急襲に、お墨付きを与えたのではないか?

 

 ここまでお膳立てが整えられていれば、もはや、京都からやって来た伊勢新九郎の小鹿範満討伐は、蛮勇ではなくなる。

 

 周囲の政治状況が十分整えられていた環境で、彼は小鹿範満を打ち、今川家当主の叔父という立ち位置に収まったのだ。

 

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。