伊勢新九郎異聞~足利義尚奉公衆北条早雲~
文亀元年(一五〇一)正月、二人の不和が高じて、月末になっても政元は出仕しないという事態になる。
ーーこの政元の、儀式の一日だけ管領になったり、出仕を止めたりする態度は、現代の感覚ではどうも、ふて腐れているようで好きになれない。
その後、政元は出仕するようになるが、二人の対立は解消されなかった。
それから一年、文亀二年(一五〇二)二月十七日、政元は家臣・安富元家(安富氏は紀氏末裔、紀氏は武内宿禰子孫)の宿所に赴くと、そこで隠居と称して引きこもるようになる。
さらに、京都から領国に下向すると宣言、三月九日、実際に丹波に下向してしまっている。
いくら対立が続いているとはいえ、幕府は、政元なしには運営できない。義澄は政元を慰留するが、彼は帰京しなかった。仕方なく、義澄は、当時政元が滞在していた宇治・槙島城に自ら足を運び、政元を説得。
これで、ようよう政元もかんがえなおし、四月二十五日に上洛した。ふて腐れた隠居は、二ヶ月ほどで切り上げられた。ーーこれは、室町幕府もおしまいだという気分になる。たった二ヶ月、政元が京を開けただけで、将軍が顔色うかがいにやって来ている。
その後、二人はまた、百四代後柏原天皇の即位礼費用の献上をめぐって対立する。
すると、八月四日、今度は、義澄の方が、隠居すると言って金龍寺(京都高倉)に出奔、今度は政元が慰留に乗り出す。
・金龍寺にやって来た政元に、義澄が七ヶ条の要求をつきつける。そこには、義材の異母弟義忠の殺害が含まれていた。当時の公家には、義材と内通しているものがいて、その親族の動向に義澄は神経を尖らせていた。また、政元が義材と和睦し、自分を廃した上で義忠を新将軍にするのではないかと疑っていた。
・政元が七ヶ条の要求を容れ、足利義忠を殺害する。
あまりにしょうもなくて、箇条書きになってしまう。義澄は、これで政元の退路を断ったつもりだっただろうが、将軍家の人間がこうも簡単に殺されるようになってしまってはどうしようもない。
すでに時代が十六世紀に入っている。北条早雲こと伊勢新九郎盛時が、一四九〇年代末に、小田原城を奪取している。
伊勢、という名字からお気づきだろうが、盛時の父・盛定は、文正の政変(一四六六)を起こし、義視殺害を義政に迫った伊勢貞親の妹を妻としている。つまり、伊勢貞親は盛時早雲の伯父にあたる。
政所執事伊勢氏が、北条早雲の出自なのだ。素浪人から成り上がった戦国大名の典型、という人物像は、近年否定されている。伊勢氏は、政所執事を世襲し、小笠原家に並んで、礼法と有職の家とされた。
むしろ、下手な地方分国大名より、家柄がいいかもしれない。ーー小笠原家、伊勢家という礼法の家は、どうも実態がつかみづらい。殿中作法、お行儀の家とかんがえると、文弱なようだが、南北朝時代の小笠原貞宗は、諏訪氏に担がれて蜂起した中先代・北条時行と対決し、鎌倉進軍こそ阻止できなかったものの、信濃の抑えとして長年活躍した。北朝に従い、各地を転戦。伊勢氏も、盛時早雲という戦国大名の嚆矢を出した。礼法の家という押し出しの良さから、有力者と縁組みしやすく、かつ俊英も出す、社交界の鋭鋒、といってもいい面々なのではないか。
伊勢新九郎盛時は、父盛定とともに、室町幕府政所の伊勢貞親・貞宗親子と連絡した。いや、貞親、貞宗、、ーーつまり、応仁の乱の東軍、明応の政変の政元・貞宗方の末端として、盛定・盛時父子がいたのだ。
北条早雲ほど、近年の研究で人物像が変化した人間も珍しい。これと並ぶのは斎藤道三くらいではないか。そもそも、生年からして違う。これまでは永享四年(一四三二)とされていたが、近年は康正二年(一四五六)と、二十年以上若返ってしまっている。
新九郎盛時は、まず、今川家被官として頭角を現した、そのようにかんがえられていたが、これは、室町幕府の命で今川家の家督相続問題に介入した結果なのだという。
ーーことのついでで作者の持論を述べさせてもらうが、歴史上の人物の印象について、どこかアイマイで、ディテールがぼやけている印象があるときは、たいていは、まだ明るみに出ていない事実があるか、何らかの事情でその人物を修飾というのか、補正するフィクションがある時である。
北条早雲も、従来の史観では、漠然と今川家に仕え家督問題で活躍、そして伊豆から出て小田原を切り取り、ついに関東を切り従えた英雄、というなんとも漠然としたイメージしかなかった。ーーこれは、単に作者が北条早雲の伝説について疎いということもあるだろうが、右のように研究で実態が著しく変化している人物なのだ。
素浪人ではない。歴とした室町幕府の官吏である。これはつまり、室町幕府が、旧来の史観よりも、はるかに地方へ影響力を残していて、十六世紀に入るまでは、政権として安定していた、ということではないか。近年までは、その印象が薄かったために、また早雲個人の研究も進んでいなかったために、伊勢新九郎盛時は素浪人とされ、徒手空拳で今川家の家政に食い入ったかのように物語られている。
ところが、実際は、室町幕府の施策の実行者として、官僚として、彼は今川家に介入したのだ。
そもそもが、縁故なのである。ーーー事の発端は、駿河守護・今川義忠が、応仁の乱で、東軍に与したことから始まる。今川義忠と東軍の伊勢貞親の申し次ぎをしていたのが、新九郎の父盛定だった。これが縁で、盛定娘北川殿が、義忠に輿入れした。新九郎の姉である。
今川家当主の正室が姉なのだから、それは、今川家の家政にも介入しやすい。
今川義忠は、同じ東軍の斯波義寛(斯波義敏の嫡男)が治める遠江をしばしば侵していた。これは、兵粮用として将軍から授けられていた領地を巡っての内紛だった。文明七年(一四七五)九代将軍義尚に謁見した斯波義寛は、遠江守護代・甲斐敏光とともに本国に下向、そこで、今川義忠を破り、敗死させる。さて、義忠と北川殿(伊勢盛定娘)との間にもうけられた嫡男・龍王丸(今川氏親)は、まだ幼少だった。このため、家中の三浦氏や朝比奈氏が、分家の小鹿範満を推戴する。今川家は、家督争いで二つに割れた。
当時の情勢の厄介なところは、鎌倉府や堀越公方といった幕府とはまた違う勢力があることだ。扇谷上杉家と堀越公方・足利政知らは、小鹿範満を応援した。
不利になった龍王丸─北川殿は、京都の新九郎盛時を頼った。盛時は駿河へ下向し、家中を調停、龍王丸が成人するまで小鹿範満が当主代行となる形で決着させる。ただ、この新九郎盛時のはたらきは、彼が満十九歳に過ぎなかったことから、彼が調停を行ったのではないのではないかともいわれている。北川殿が父・盛定に介入を要請し、室町幕府の官僚の誰かが出向し、調停したのだろう。
さて、文明十三年(一四八一)になると「伊勢新九郎盛時」という名前が、文書に現れる。文明十五年(一四八三)には、九代将軍義尚の申次衆。長享元年(一四八七)には幕府奉公衆に出世している。ーー素浪人どころではない。幕府のエリートだ。
このころ盛時は結婚している。相手は、同じ奉公衆の小笠原政清娘だ。二人の間に嫡男の氏綱も生まれている。ーー伊勢氏と小笠原氏の間に生まれた氏綱は、えらいサラブレッドではないかとかんがえたが、果たしてそうだった。いわゆる北条五代の二代目だが、正室は、養寿院殿、彼女は、鎌倉北条氏末裔横井氏の娘だったともいわれている。
彼女が没して後娶った継室が、近衛殿、近衛家(摂家)十五代当主、従一位関白、太政大臣近衛尚通娘だ。
腰を抜かすくらいの貴胤である。このころには、北条氏も関東を切り取っているが、それにしても伊勢家と小笠原家の家格は伊達ではない。
話を新九郎に戻す。龍王丸が十五歳になっても小鹿範満は、家督を手放さない。北川殿は弟の新九郎盛時を頼み、彼は駿河国へ下向。ーーじつはここには、金銭上の問題もあったという。彼は細川京兆家の関係者に借金があり、訴訟に至っている。駿河への下向は、これが一因にもなっているともいわれている。京兆家関係者ともめるのはよろしくない。
新九郎は、空手ではなかった。文明十一年(一四七九)十二月に、先代将軍義政が、龍王丸の家督相続を認める御内書を出している。だいたい、新九郎自身が、龍王丸の叔父なのだ。新九郎は龍王丸を補佐し、石脇城(静岡県焼津市)で同志を募り、兵を集めた。長享元年(一四八七)十一月、今川館を襲撃、見事、小鹿範満を討ち取った。
ーー変な男である。姉の北川殿は、幕府奉公衆としての新九郎を頼った。それなら、伊勢貞宗なりに取り次いで、龍王丸に家督を譲り渡す旨、御内書なりを発行させるよう働きかければいい。
しかし、新九郎は、自らが駿河国に飛び込んで、今川館に打ち込み、小鹿範満を討ち取ってしまうのだ。
どうにもこの人物には違和感がある。
まずかんがえられるのは、奉公衆という肩書きだ。これは、将軍の親衛隊で、三百人から四百人ほどで構成される。それぞれが有力御家人、足利一門、有力守護大名や国人であり、それぞれが抱えている人数を合計すれば、一万ほどの軍団になるという。
やはり、新九郎盛時は、歴とした筋目の御家人だと分かる。ーーしかし、そんな彼でも、せいぜい動員できるのは、数十人から百人程度で、駿河一国の騒動を収攬すべく自ら飛び込んでいくのは、首をひねるような蛮勇である。
別に、人間が英雄的な行動を取っても変ではない。作者としては大いに良い風景だと思うのだが、その行動に相応の「動機」というものが見当たらないとき、大いに違和感が沸くのだ。
どうも、新九郎盛時には、まだ、解明されていない既往がありそうだ。そういう人物に特有の、アイマイな、フワッとしたフィクション性が感じられる。
ーー一つの仮説として、夢も希望もないが、右に紹介した借金と訴訟沙汰があった、とすればどうだろう? 借金で首の回らない状態で、姉が幼君の母親である駿河国へ下向する。京都にもどるわけにはいかず、ここでなんとかするしかない。名家意識の強い今川家中なら、伊勢氏を重んじないはずもない。
(ここが第二の故郷だ)
そうなれば、くそ度胸も沸く。幼君・龍王丸を立て、おのれが今川家の重鎮となるべく、死に物狂いで働こう。ーー退路を断たれていた、とかんがえると、新九郎の爆発力にも筋が通るのだ。
この仮説を叩き台に、さらに詳細な事情をかんがえてみる。伊勢貞宗と従弟という関係なのだ。そんな彼が借金で追い詰められるとはかんがえにくい。新九郎が訴訟を起こされていたのは「京兆家内衆庄元資の家臣・渡辺帯刀丞」という人物らしい。奉公衆という身代にあるものが、借金で首が回らなく、、ーーいや、あんがいそうなりそうな気もする。
ともかく、伊勢新九郎家の財政には、影が落ちていた。
そして、新九郎が駿河に下向した時期、長享元年(一四八七)である。
九代義尚の代で、同年の九月十二日に、第一次六角氏討伐の軍団を出陣させている。これが、義尚の権威を発揚するための一大デモンストレーションでもあったことは、すでに述べた。
もともと、義尚は、将軍側近の権力を強化することに熱心で、武官である奉公衆、そして文官である奉行衆を制度として確立した。わけても、奉公衆の方に力を入れていて、文明十七年(一四八五)四月に奉公衆と奉行衆の間で抗争が起こり、死人が出る騒ぎになると、義尚は一貫して奉公衆を支持していた。
いかにも、六角氏討伐をやりそうな人物で、実際、討伐軍でも奉公衆を親衛隊として活躍させていた。
武勲で、先代義政や闇将軍の日野富子を上回る権威を発揚させようとしている。
当然、側近の奉公衆にも、相応の武辺や、それが叶うだけの兵容や装備を求めていたのではないだろうか?
そして、新九郎家には、財政的な問題があり、義尚の期待に応えるだけの兵馬や陣容を用意することが難しかった。
官給ではない、自弁しなくてはならないのだ。もし、この一世一代の盛事にあって、義尚の不興を買えば、あからさまな贔屓をする人物だ。
その反面、おのれは疎まれ、高級官僚としては破滅する。
この事態を避けるために、新九郎は、駿河へ下向したのではないだろうか?
(あの方に睨まれてはたまらぬ・・やむを得ぬ、都落ちじゃ)
そうなれば、頼るべきは、今川家の御台所である姉であろう。北川殿から伊勢新九郎への要請もあったかもしれないが、実情としては、新九郎がむしろ北川殿を頼ったのではないか。
新九郎が京を離れる事由は他にもある。彼は、当然縁者として伊勢貞親嫡男貞宗を寄る辺としていた。貞宗は、義尚の養育係で、義尚と義政の間がこじれ、髻を切って出家すると騒いだときには、彼を邸宅に引き取ってやっている。
しかし、貞宗は、その温厚な性格を見込まれ、義政に重用されていた。
親子間の確執がある義尚は、貞宗をも疎んじ、実際、六角氏討伐時、前線の御所たる「鈎の陣」には、同行を許さず、政務から遠ざけていた。
そうなると、従弟の新九郎もやりにくい。一族の長者である貞宗が敬遠されている。
(京に留まるのもここまでじゃ)
そう見切りを付ける理由になっただろう。
そうやって、駿河にまでやって来れば、礼法の伊勢家とあって、下にも置かぬ扱いを受ける。
支持者も相当おり、彼らに
「どうぞ、龍王丸様が家督を相続できるようお力添えを」
そう要請されれば、一か八かの決起にかける度胸も沸いてくるだろう。ーー窮境から救い出されたとき、人間は奮い立つ。
そして、この新九郎に目を付けた人間が、駿河の東にもいたのではないだろうか。
伊豆一国を治める堀越公方
足利政知である。




