本丸の動揺
十二月、義材は、周防へ向かい、大内義興の庇護に預かった。ーー周防での滞在は、八年。
よほど、心づくしの応接を得たのだろう。義興は、義材を歓迎し、明応九年(一五〇〇)三月、山口の屋敷で歓迎の宴を開いた。月ごとに重臣を派遣して警固に当たらせ、義材がいることを「面目の至り」と周囲に吹聴した。
海の国としては、ランドパワーの重鎮を戴き、できることなら天下を取りたい。
政元は、奇矯人でありながら、存外抜け目なく、日明貿易を盛大に行って巨利を博している。大内氏を締め出すべく少弐氏と手を組み、博多や平戸を押さえていた。
(鳥狂いの天狗めを排さぬことには、立ち行かぬ)
しかし、義材の京都奪還作戦を失敗させたことで、政元の権力は堅固になった。河内、大和、山城など、別に彼が守護職ではない国々もなびき、京兆家の権勢は極まっている。そして、大友氏との抗争もあり、山口を留守にすることはできなかった。
義材は、まず、大友氏と大内氏を和睦させようとする。大内氏が義材を擁して以来、大友氏は政元や義澄に接近するようになっており、至極厄介な状況だった。
さらに義材は、おのれを支持するよう周辺大名に呼びかける。安芸毛利氏(大江姓秦氏)肥後相良氏(藤原南家工藤氏、為憲流)らだ。さらに、肥後の阿蘇惟長にも協力を呼びかけている。皇別姓「惟」を通字とする一族だ。他にも近臣らが山陰地方を巡り、山名や一色といった西軍縁故の家々に声をかける。彼らの中には義材支持を表明するものもいたが、抜かりなく大友氏ともよしみを通じているものもいた。安芸の毛利弘元がこの両面外交を展開していて、彼の次男・元就が時折見せる底知れぬ謀才の前兆となっている。
そうこうしている内に、畿内で動きが見えてきた。明応九年(一五〇〇)九月の戦いで、政元は再び畠山尚順を大敗させ、京都市民を安堵させた。ーー戦いの才能は、小太郎義貞に通じるものがある。
だが、畿内の脅威がなくなると、別の問題が発生する。
十一代将軍義澄が、自ら政務を行おうとし、政元と対立したのだ。




