過去からの伏兵
本来ならば、ここで、京都を奪還することも十分可能だった。畿内南部では、畠山尚順が頑張っている。
だが、北陸で義材を擁している朝倉が動かなかった。ーー思えば、最初から、義材を厚遇するでもなく、どこか他人行儀だった。朝倉氏は「今年は天下飢饉にて」と言い、これは事実であり、凶作の年だったが、それ以上に、どうも、朝倉氏の計略に思える。ーー応仁の乱で、七代朝倉孝景が西軍から東軍へ寝返り、その報酬として本来斯波家のものであった越前を得た。朝倉家も十一代義景の代になると、庸君の代表のように評されるが、この頃は、下剋上の英気と、梟雄の面構えをしている。
(細川京兆家とそれが推す将軍・・事を構えるのは得策ではないわい)
ということではないか。
第一、翌十月に加賀国から侵攻してきた一向一揆や甲斐氏(秀郷流佐野氏)の軍団は退けているのだ。体力はあった。
朝倉の兵は動かす、結局、義材はおのれが都合できる数百騎で京都へ向かわなくてはならなかった。途中、若狭へ向かって若狭武田氏の援軍を得ようとするが、これは失敗に終わった。
義材は小勢だが、それだけ機動力がある。十一月中旬に若狭に向かった軍団は、十一月十六日には近江坂本に到着。
細川政元は、両面作戦を強いられる。一族の政春・髙国父子を派遣するが、ここに、第三の勢力が介入する。
足利家から二度の討伐を受け、義材にも煮え湯を飲まされている。
六角行髙、三度将軍家と相対する。
六角行髙は、近江坂本を奇襲し、義材は鎧を身につける暇もないまま、敗走する。このとき、行髙の接近は把握していたものの、陸路ではなく琵琶湖を渡って坂本を強襲、虚を衝かれた形になった。ーー小説的には、甲賀の衆の影働きがあったとかんがえたい。
義材は延暦寺に逃げ込んだが、比叡山は六角勢に包囲され、寺からも脱出するしかなくなる。政元は義材に味方したものたちに懸賞金をかけ、義材の行方を追った。
両面作戦が不可能になっては仕方がない。畠山尚順も、十二月、拠点である紀伊へ引き上げる。
京都奪還作戦は、失敗に終わった。




