黒白陰陽
さて、和平交渉は打ち切られ、義材は、大内義興を頼り、京都奪還を成し遂げる方策をかんがえ始める。ーーだが、明応七年(一四九八)になると、大内氏は豊後の大友氏と抗争し、ますます上洛は遠ざかっている。
(当座、大内氏もきびしいか)
義材は、越前一乗谷、朝倉氏を頼ることにする。
明応七年(一四九八)九月、義材は、近臣十三名とともに、ひっそりと越中を去り、一乗谷へ向かう。
この、お忍びで、というのが、義材の難しい立場を象徴している。味方も果たして味方と割り切っていいのか、という話だ。伊豆の源頼朝のようなもので、さまざまな勢力の後ろ盾になっているものの、三種の神器のようなレガリア(王権の担保)としてあつかわれている、ということでもあり、いざ、義材が自分の意志で発言し、去就しようとすると、これに執着し、引き留める程度ならともかく、事実上の軟禁に置く可能性もある。
九月の内に、一乗谷に到着、朝倉家当主貞景(母織田氏、正室利仁流美濃斉藤氏)に迎え入れられる。
だが、貞景も政元との決戦には乗り気ではなく、さほど礼遇もされぬまま、義材は越前に滞留する。
ーー一乗谷に来た。まさしく十四代義昭のようだ。こういう風に「京都に旗を立てる」「足利将軍を戴き上洛する」英雄を尋ねる旅路を続けたのだ。
一五六〇年代末に、濃尾の英雄信長に出合うまで
足利はさすらう。
明智光秀十兵衛など、こういう流浪の将軍を助け、擁立するために志士のように奔走する時期を持った。たしかに、こうして諸大名を経巡る足利の旅路には、王の放浪には、若い十兵衛がかいま見たであろう詩想がある。
『ーー鎌倉を巡る戦いである・・人生の晩年、最終局面に。
この男、自殺すると騒いでいることが多いので見過ごしがちだが、つくづく宿命だ。
(人は誰もが、宿命の兵隊よ)』
弟を毒殺した直後に、おのれを征伐する新田小太郎の伜を引き受け、尊氏はひとりごちた。
これほど宿業に囚われた一族もあるまい。
真正面から、宿業と向き合った一族はない。
十月二十六日、義材は、和平交渉に失敗した吉見義隆を自害させている。
いきなり、ぎょっとするようなことをする。義材は、吉見が政元に通じていると疑っていたという。ーー種村視久らの讒謗、和平から主戦へ切り替えるという意思表示もあったのだろう。
明応八年(一四九九)二月。
畠山家で動きがあった。
政長の子・尚順が、河内で畠山基家を敗死させたのだ。尚順は、そこから河内、和泉、大和を制圧。
畿内南部を押さえ、天王寺に陣を置いた。
尚順は、政長の代から義材の同盟者であり、これで、畿内南部と北陸から、京都をはさみうちにする体勢がととのった
(すわや!! 因果は廻るものぞ!!)
義材は、同朋衆・木阿弥を畿内に派遣、京都侵攻作戦を進める。七月、政元は、京都市民へ家財の隠匿を禁じる法令を出している。つまり、家財道具を持ち出す恐慌状態だった。
『もう、何度、この京を巡る攻防を持ったであろう。いい加減、取ったり取られたりにも、耐性ができている。
閏二月十七日には、鎌倉を去った。(ーー鎌倉は、どこか、時代遅れになったのだ)そのことに、いい加減、気づいている。頼朝公の時代には、海と山の天嶮に拠った金城湯池だった。
だが、十四世紀の攻防では、抜かれてばかりだ。
(しかし、京も紙の城であり、鎌倉も難所ではのうなっておる。ーーーこの日の本、いずれに首邑〈シュユウ〉を置けばよいのか)』
時代遅れなものが、ゆらぎつつも、まだ威信はそこにある。尊氏の頃から、因果は廻っている。
さらに、三月、延暦寺僧兵が義材や尚順に呼応、伊勢貞宗の孫が住持の寺院を破却した。貞宗自身が討たれるという噂が流れ、貞宗は政元に出兵を要請、これに応え、政元は兵を送り、叡山の義材派を殲滅した。
織田信長以前のこの所業も、比叡山焼き討ちと呼ばれている。
七月十三日、義材は、越前府中を出立、京都へと兵を進める。畠山尚順も兵を集め、越中から神保氏、椎名氏(良文流千葉氏)の軍団を呼んでいる。
明応八年(一四九九)九月
京都南方で、畠山勢と細川勢の戦いが始まる。一進一退の中、混乱に乗じて土一揆が発生
(アハハハハハハハーーーー!! 父上〈畠山政長〉の代には、山城国一揆に泣かされたものだわい!!)
細川軍は、混乱を収拾するのに苦しめられる。




