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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
十代将軍義材
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前哨和平

 さて、義材は京都を脱出すると、近江から、北陸越中へ入る。

 ここは、畠山氏の領国であり、故政長の家臣・神保長誠(ながのぶ)に庇護される。ーーこういう、秦氏政権の有力者が流浪する流れになると、さだめし、後戸の客が寄りつき、スクロールアウト同盟を形成していくだろうとかんがえるが、残念なことに、女系、母親や妻が家系図から省かれる時代になっており、縁故を確認しづらい。

 神保氏は、惟宗姓秦氏・・要は、島津氏と同族で、筋目の後戸の客である。

 ここで、義材は、全国の大名におのれを支持するよう呼びかける。

 義材の檄に応じて、越前朝倉氏(日下部氏、息長水依姫夫日子坐王(ひこいますきみ)子孫)越後上杉氏(勧修寺(かじゅうじ)流藤原氏末裔、上杉氏は関東管領とともに越後守護職も兼ねていた)加賀冨樫氏(藤原北家利仁流秦氏)といった北陸の大名がこれに応じる。

 こういうことばかりやっているから国が治まらないと思うのだが、かつては南北朝、応仁の乱では義政と義視、明応の政変後は十一代義澄と義材、旗印が尽きず、家督争いの後援者は尽きせぬ、火種とそれを熾す風の時代である。

 九月上旬、義材のもとに細川政元が派遣した討伐軍がやって来るが、越中軍はこれを打ち破る。例によって尋尊の『大乗院寺社雑事記』によると越中は「皆以て上意に従う」という状況になった。この上意とは義材のことで、越中を完全に掌握したのだ。

 (よし、流れは来ている)

 翌明応三年(一四九四)になると、正月から、京都で不穏な噂が流れ始める。「政元が、義材の帰洛を認めた」あるいは「義材が九州の諸大名を率いて上洛する」「正覚寺で自害した畠山政長は、じつはまだ生きている」・・ーーー

 これらの噂に動揺し、京都の公家衆には義材に通じるものも現れた。

 

 明応三年(一四九四)九月二十一日、義材は、旗揚げの儀式を行い、正式に義澄と政元へ宣戦布告する!!

 ーーだが、北陸での義材の勢いも、ここまでだった。

 明応五年(一四九五)

 明応六年(一四九六)

 義材はこれといった手を打てず、状況は膠着する。義材の檄に北陸の大名はこぞって応じたものの、上洛するとなると、また別問題だ。どの家もなにかの火種を抱えていて、将軍(潜在的将軍?)という後ろ盾はほしいものの、京都の政元と対決するほど積極的にはなれない。

 

 なにやら、いろいろ思うところがある。時代が進んだな、ということだ。これが平安末期、源平時代なら、武門の棟梁を擁する二派など共存を許されない。熾烈なにらみ合いと、絶えざる勢力争い、小競り合いが起こるだろう。

 だが、ここで、北陸に十代将軍義材が、京都で十一大将軍義澄が並立し、そのまま、お互い無視するように暦がつづられている。

 無論、政争のレベルでは反目し合っているが、容易に武力衝突、雌雄を決する段階に移行しない。そうして移行しない限り、中央も北陸での「越中公方」を、半ば黙認するような沈黙を続けている・・ーーーー

 

 司馬遼太郎は、しばしば、鎌倉時代からわれわれと地続きの庶民の時代が始まった、鎌倉武士から、日本人としての連続性を感じることができると記述している。

 作者は、だめだ。鎌倉武士は、まだまだ、平安の土俗や宗教感情を引きずっているし、なにより、ちょっと野蛮すぎる。係争が闘争とつながっていて、平気で頸を掻くような野性があり、一体感は感じられない。

 だが、室町時代くらいになると、ずいぶん、本音と建前の使い分けができて、しかも対立する陣営が本音を共有しつつ、建前として白黒分かれる、かなり現代人的な態度が見られるようになる。

 感覚的なものもふくめて、われわれのご先祖様と言えるのは、室町時代からではないだろうか?

 

 (らちが開かぬ)情勢を挽回したい義材としては、北陸勢の煮え切らぬ態度は、情けないばかりだった。

 こうして、北陸幕府では、二つの案に意見が集約されていく。

 一つ、周防の大内義興を頼り、政元討伐の兵を挙げる。義材が拠点とした放生津(ほうじょうづ、富山県射水市)は日本海を航行する船が立ち寄る港で、大内氏と連絡するのが容易だった。義興は、政変の最中にあっては、妹を人質に取られ、なすすべがなかった。だが、義材が放浪するようになってからは、好意的な消息を寄せている。

 この案を推したのが、種村視久(みひさ? みく? 義視から偏諱を受けている)ら一部の近臣だ。ちなみに、この種村氏は、佐々木源氏である。

 なんだかんだで後戸の客に取り巻かれている。

 もう一つの案は、細川政元と和解し、帰京すべきだというものだった。これを主張したのは、近臣グループの吉見義隆、吉見氏は清和源氏、なんと為義流八幡神族である。神保長誠(惟宗姓秦氏)ら越中の豪族もこれを支持した。

 ーーまた秦氏が親戚内でやり始めた・・ーー

 

 結果、さまざまな事情から、後者の和平案が有望視される。大内氏も強大な存在感を放った政弘が没し、内紛が起こって京都に出兵する余力がない。北陸の大名も大内氏に手柄が握られることを好まず、この点からも和平が好ましかった。

 

 さて、すでに秦氏お得意の内部争いの構図に、北陸幕府さえ陥っている。この状況に拍車がかかる。

 神保長誠が和平交渉を主導し、数千貫という巨額の工作費を投じて、細川政元の屋敷に連絡をつける。

 貫、というのも、なんとなく普段分かったような気分になっている単位だが、これが銭のまん中の四角い穴に紐を貫いて束ねた単位だということは知られている。このやり方で、銭一千枚を連ねたものを、一貫と数える。物価とか金銭感覚は、当時の状況のなかでしか成立せず「現代ならいくらぐらい」というのは、本来虚仮で「銭一千枚という貴重な物品」という物々交換感覚でかんがえたほうがいい。

 これを「数千貫」だ。

 そうとうばらまいたものである。 

 その後、和平派の吉見義隆も上洛、交渉に参加した。

 だが、主戦派の種村視久はおもしろくなく、家臣を派遣して和平交渉を妨害した。

 こういった状況下で交渉は続き、じょじょに和平への道筋がつき始める。京都の公家には、上洛した吉見義隆に贈り物を差し出し、よしみをむすぼうとするものが現れた。

 

 しかし、細川家の内部から、和平に反対するものが現れた。京兆家分家・典厩家(テンキュウ家、典厩は左馬頭・右馬頭の唐名)の政賢(まさかた)だ。

 政元は、政賢の意見を容れ、和平交渉は明応七年(一四九八)七月で打ち切られた。

 


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