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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
十代将軍義材
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暗殺未遂

 義材は、この後、ひどい目に遭った。まず、身柄が四天王寺へ移される。

 ・閏四月二十九日、義材の側近で、公家の葉室光忠が殺害された。

 ・五月二日、大観衆の見世物になりながら、義材は京都へ連行される。古い板輿に乗せられ、供回りは六人、まさにさらし者だった。北山の龍安寺に幽閉となる。

 ・五月六日、義材の夕食に毒が盛られ、さんざん苦しんだ後に、薬で一命をとりとめる。細川方が夕食係を吟味したところ、その一人が「毒は富子に渡された」と証言している。同時期、義材が毒殺されたという噂が洛中に広まった。毒殺未遂事件は実際に起こったのだろう。

 ・五月十八日、龍安寺から政元の家臣・上原元秀の屋敷に移送される。先の毒殺未遂事件を受けて、食事は、義材の同朋衆(貴人の周囲で雑務や芸能にあたったもの)が世話することになる。

 

 上原元秀の屋敷では、それなりに礼遇されていた。だが、おのれが讃岐の小豆島に流されるという話を耳にし、義材は脱出を決意する。

 

 明応二年(一四九二)六月二十九日、この日、京都を嵐が見舞っていた。(天佑)義材は、数人の近臣とともに、夜の闇に紛れて上原元秀の屋敷を脱出する。ーーこのあたりのディテールを穿鑿したいが、よく分からない。そもそも、義材という人物自体、その生涯にスポットが当たったのは、二十一世紀に入ってからではないか。

 ここから「流れ公方」と呼ばれる将軍の漂泊が始まる。

 義材の別名は多い。「越中公方」「島公方」「淡路御所」「筑紫之御所」「阿州公方」「九州大樹」・・ーーー

 

 全国を転々としながら、捲土重来の機をうかがい続けたのだ。

 ーー十四代足利義昭も、全国の大名に世話になりながら、執務し続けていた。

 

 つまり、義材のあたりから、もう、細川京兆家が管領職を独占し、それをいいことに中央を牛耳る体制が続いていたのだ。阿波の三好氏や松永久秀は、この文脈の中で君臨した。

 将軍は、京都から追い出され、あるいは京都で傀儡となって政務をする。

 そういう存在にまで堕したのだ。

 

 室町幕府の形骸化・戦国時代の出来は、応仁の乱を契機とする。この史観は、近年否定されている。

 明応の政変こそが、日本が戦国時代に切り替わるとば口となったのだ。

 

 

 

 王都を追われ、戦国の火にあぶられながら

 

 足利の試みは、続く。

 

 


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