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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
十代将軍義材
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明応の政変~室町天狗擾乱す~

 応仁の乱の頃から貴重な史料を提供しつづけている大乗院門跡・尋尊。彼の『大乗院雑事記』明応二年二月二十三日条に、不穏な記載がある。河内征伐が起こる直前、畠山基家の重臣が、こう豪語していたというのだ。

 「将軍の討伐軍が興ったところで、当方は何ら問題がない。なぜなら、伊勢貞宗始め、大名らとはとうに話がついている」・・ーーー

 

 伊勢貞宗は、義視を殺そうとした伊勢貞親の子供だが、明応の政変が起こった後、十一代将軍・足利義澄の後見人になっている。

 たしかに、話はついていたのだ。

 

 政元の根回しは、入念だった。すでに、富子とは、義視・義材父子との仲がこじれてから、共謀関係にある。

 そのうえ、赤松政則に、おのれの姉を輿入れさせ、味方に引き込んでいる!!

 

 赤松氏も、よくよくだ。嘉吉の乱では、六代義教を殺害し、大逆の罪を犯した。

 なんというのか・・秦氏なのだろう。

 

 明応二年(一四九二)四月二十二日、細川政元、日野富子、伊勢貞宗は、義材廃立へと動き出す。まず、義澄の身柄を保護、それから、義材の関係者宅へ兵をやり、義材の弟妹が出家していた寺院まで破壊された。

 義材を排して義澄を十一代将軍にすること、畠山政長の河内守護職解任、畠山基家の赦免を公表

 政所執事である伊勢貞宗から、諸大名や奉行衆に、義澄に従うようもとめる書状が送られる。

 

 バカなことをしたものである。ーー執権ではない、将軍を廃立しようとしているのだ。

 鎌倉幕府設立初期の抗争さえ、東夷の醜態以外の何物でもない。海の国の影響力を排する余徳があったとは言え、日本中から呆れられる紛糾だ。

 

 それを、中央政権そのものになってから、やってしまった。

 

 それならお前たちは何なのだ、と、鼎の軽重を問われることになろう。

 

 さらにバカバカしいのは、伊勢貞宗からの内応の誘いに、河内に出陣していた大名や奉行衆の大半が同調し、京都に帰ってしまったことだ。

 大内氏も、兵を摂津兵庫へ引き上げ事態の推移を見守った。ーーだが、このとき、息子義興に指揮を任せていた政弘は、わが子との間に悶着を起こしている。

 やはり、大内氏が義材に付くのが不安材料だったのだろう。ーーなんと、細川政元に与した武田元信が、京都で義興の妹を誘拐している!! これが圧力となり、若年の義興は屈してしまった。

 政弘はこの対応を激しく批難。義興の側近を切腹させている。

 

 義興が圧力に負けたのも仕方がない。若年も若年、満十五歳だ。

 

 (やられた!!ーー)

 宗全坊主の孫が、わが子を翻弄しおるのか。政弘は、ほぞを噛んだことであろう。

 

 

 政変翌日、四月二十三日、後土御門天皇は政元から政変の報告を受け、激怒。

 「朕の宣下した征夷大将軍ぞ!! 右京大夫政元ずれが、なにを叡慮を覆しおるか!!」

 (富子、貴様かーーーーーーー!!)

 後土御門天皇は、定めし、顔なじみになっている義政夫人のことを思し召されたであろう。

 富子は、義政世代の生き残りであり「御台所」として絶対の権勢を誇っている。彼女の後援あってこそ、明応の政変などという無茶が通ったのだ。

 

 そもそも、こんな無理を通した政元からして、なにか、普通の人間ではない。能力が、というより、精神が平常人とは違っていて、彼は空を飛ぶことを本気で願い、日常、天狗の扮装をし、高所へ上ったり、鳥の和歌ばかり集めたりしていた。

 『京管領細川右京大夫政元ハ、四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ、魔法、飯綱ノ法、アタコ(愛宕)ノ法ヲ行ヒ、サナカラ(さながら)出家ノ如ク山伏ノ如シ。或時ハ経ヲヨミ陀羅尼ヲヘン(編?)シケレハ、見ル人身ノ毛モヨタチ(身の毛もよだち)ケル』

 この文章の出典である『足利季世記』は、やや粉飾の過ぎる軍記物で、そのまま受け取るわけにはいかないが、まあ、奇矯な人物だったのだろう。ーーやはり、新田、山名の系統というのは、なにか・・

 

 (あのうつけにわが世顔をされるとは!!)

後土御門天皇は、勝仁親王への譲位を口にされるが、廷臣らがお諫めし、譲位を思いとどまられている。だが、よほどお怒りだったのだろう。政変後、八ヶ月もの間、義澄への将軍宣下を行われなかった。

 

 

 義材は孤立した。幸い、政長の兵八千がおり、無力ではない。本陣の正覚寺を城塞化し、百もの櫓を建て、その一番の高所を陣所とした。ーーこのあたりは、やや脚色もあろう。

 

 閏四月七日、政元は、安富元家らが率いる軍勢を派遣、河内へ侵入。

 同月中旬、紀伊(政長の領国)から、根来衆を始めとする数千から一万の軍勢が、正覚寺へ出立。

 だが、この援軍を、赤松政則が遮った。閏四月二十一日、両軍は堺で激突、合戦数時間の後、赤松勢が凱歌を奏する。

 

 あの根来衆が、と、驚いたが、よく考えれば、まだ鉄砲伝来前だ。

 雑賀衆と並び、戦国時代に異色の存在感を発揮した鉄砲集団は、まだ誕生していない。

 

 正覚寺の兵糧も尽きかけていた。援軍の敗退に、義材らは絶望する。

 やがて、細川軍の総攻撃を受け、落城。政長は嫡子を逃した後に自害し、義材は、細川軍に投降した。

 

 


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