暗流
六角氏討伐の成功は、義材に大いに自信をつけさせた。ーー歴史の行間ながら、少し、嬉しい。
やはり、武家という連中は、戦いで浮沈する。ーー当たり前のことだが、この流血と汗に満ちた殊勲で存在価値を問われる峻烈さは、関東以来のものだ。
思い返せば、幕府軍は鎌倉公方成氏の率いる関東武士団に対しても、大鉄槌を下している。
武家の風、依然として健在。
ーーしかし、六角氏討伐の成功は、諸刃の剣ともなった。義材は、この事業で活躍した斯波義寛や畠山政長を重用。
結果、それと対立していた政元や富子と、ますます溝を深めたのだ。
明応二年(一四九二)旧臘に帰京した義材は、正月に畠山基家討伐の号令を発する。これは、畠山政長の要請によるものだった。
二月十五日、諸大名の軍勢が集まり、河内へ出陣。しかし、相次ぐ招集に、諸大名の厭戦気分が高まっていた。「雲霞のごとき」大軍勢が集まったというが、その内情は不穏なものだった。
二月二十四日、義材は河内正覚寺(大阪府平野区加美)を本陣とし、自ら陣頭指揮を取る。
明らかに、味を占めている。
畠山基家の城塞はつぎつぎと落城、三月には勝利が目前になる。
ーーだが、おごれるものも久しからずだ。
(親征が続けばたまったものではない)義材に対し、そういう思いが募りつつあった。
すでに述べたように、細川政元は、畠山政長に味方していなかった。これは、畠山家の家督相続以上に、細川京兆家の政元としては、三管領(細川、畠山、斯波)の一画である畠山家の統一が望ましくない、という政見から発したものだった。ーーそのため、此度の河内出兵にも参加していない。
ここで、政長が畠山家の当主となれば、義材との関係性から、おのれが排されるのは火を見るよりも明らかだ。ーーそれなら管領を空席にするようなマネをするなと現代人としては言いたいが。
だから、政元は追い詰められていた。ーー手を打っていたし、決起した。
明応の政変が始まる。
室町幕府の、決定的な斜陽が始まった。




