伊勢新九郎異聞~明応の功名餓鬼~
明応二年(一四九三)四月、明応の政変が起こり、河内の畠山基家征伐に赴いていた足利義材が廃立された。
代わって、十一代足利義澄が将軍宣下を受ける。
これで、なにもかも事情が変わってしまった。足利茶々丸は、おのれの弟・潤童子を殺害しているが、これが、将軍御舎弟殺害という大逆の罪に格上げされたのだ。
近年の研究は、驚くべき結論を導き出している。
この足利茶々丸の暴挙に対し、仇討ちすべく駿河に下向したのが、新九郎盛時の伊豆打入の真実
彼は、足利義澄から、茶々丸討伐の命を受けていた、というのだ!!
驚くべき見解である。ーーそれどころか、伊勢新九郎自身が、明応の政変に関わりを持っていたのではないかという説もある。
十分あり得る。
既存史観よりはるかに家柄が良く、また今川氏親の後見人ともいうべき伊勢盛時が、足利義澄支持者として、在京しているのだ。何もしなかったという方が無理がある。
ただ、伊勢新九郎が、義澄からじきじきの密命を帯びていた、というのは、どうか。市村高男氏(歴史学者、高知大学名誉教授)天野忠幸氏(同、天理大学教授)らが提唱されており、作者も説得力と魅力を感じるが、一方で、池上裕子氏(同、成蹊大学名誉教授)は義澄自身が足利茶々丸討伐に動き出すのなら、伊勢新九郎個人よりも、今川家に命令するのではないか、と、指摘されている。これもごもっともで、池上氏は、さらに、とはいえ、伊勢新九郎が義澄と潤童子の関係性から、茶々丸を討伐してもおとがめはないと判断し、自分の所領を回復するために動き出した可能性はあるとされている。
作者も、さんざん陰謀史観でやってるものの、新九郎が、義澄の刺客だったと言い切る勇気はない。だが、明応の政変が茶々丸の立場に影響していないはずもない。
作者は、新九郎の伊豆打入は、むしろ、新九郎の方から願い出たことではないかとかんがえている。彼もすでに利害関係を持っている。そして、池上氏の言われるとおり、義澄の了承は取り付けられる状況だった。
そして、新九郎がさんざん運動した伊勢貞宗その人が、現に、将軍義澄の後見役として、管領細川政元も無視できない権勢を手にしている。
(ようよう聞き入れてくださったか、貞宗殿)という気持ちとともに
(おれもこのままでは終われぬわい)
という娑婆っ気を出しても当然の状況だった。何年も、政知の下で、義澄を擁立すべく運動してきた。一度は義材の将軍就任で挫けた野望が、明応の政変という奇貨を拾ったのだ。
十一代義澄将軍の下、栄達する。
その野望が、新九郎に点っていなかったとかんがえる方が難しい。
「ーー茶々丸殿の所業は将軍家への大逆に他なりませぬ。かつて堀河公方家ともあった家柄が、将軍家に背くとなれば、ことはゆゆしゅうございます。しかし、義材めが北陸に逃れた現状、いたずらに軍を動かせば、京の守りを欠かす事態ともなるやもしれませぬ」
そんな風に、将軍御所一室に座った義澄に願い出たのではないだろうか。
「この上は、不詳新九郎、御舎弟潤童子様の仇を討ち、茶々丸の首級を捧げ将軍家の威光を明かし立てる微力となりとうございまする。それがしが単身駿河へ赴き、豆州の茶々丸めに討ち入りますれば、どうか、それがしが失敗した折りに、はじめて軍を動かし逆徒を成敗していただくよう、しばしの御猶予をいただきとうございまする」
かく願い出た。目的は、おのれの所領回復であり、義澄への売り込みだ。
茶々丸を討って寵臣となり、貞宗殿とともに、かつての聴松院(伊勢貞親)殿に、勝るとも劣らぬ権勢を誇る。
伊勢家の時代を築くのだ。
この野望を胸に、彼は駿河へ下向した。ようやく、中央情勢がおのれの望む形勢になりつつあるのだ。中央を欠かして進退する理由がない。
勝算はあった。大義名分はおのれにあるし、今川家も味方になる。堀越公方家の家臣団も、茶々丸から離れている。
以前の政変を成功させた体験が、新九郎を自信付けていただろう。




