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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
十代将軍義材
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第二次侵攻

 義視は死後、太政大臣の位を贈られた。これは、六代義教や義政と同じ待遇であり、一度も征夷大将軍になったことのない彼が、事実上の将軍としてあつかわれていたことを意味する。

 それだけに、彼の死は、義材の治政に大きな影響を与えた。ーーすでに、日野富子は、細川政元とともに、政知の子・足利義澄の擁立に心を寄せていた。

 虎狼の洞窟である。

 しかも、堀越公方・政知が野心を見せ始めた。

 (長年豆州に置き忘れられておったわい、、ーーーようよう、潮目が巡ってきよった!!)

 彼は、わが子・義澄を将軍にすべく、細川政元と運動する。ーー作者は、どうも、政知は、義政の関東政策の犠牲になった被害者として見ていたが、被害者では終わらない野望もあったということなのか。

 いや、それ以上に、伊豆堀越で放置され、鎌倉に入ることすらままならぬ状態で、しかも関東との和睦が、彼の頭の上で行われたことが、中央への反旗じみた感情を抱かせるに至った、そういうこともあろう。

 応仁の乱の以前から、関東とは、享徳の乱という戦争状態だった。鎌倉公方の足利成氏が、関東管領・上杉憲忠を暗殺、幕府は関東征伐を決定し、今川範忠率いる幕府軍が成氏の軍を破って下総古河へ敗走させる。その後、義政が政知を新たな鎌倉公方として赴任させるが、成氏の勢力が強く、鎌倉に入ることができず、その手前の豆州堀越で政務を執った(堀越公方)政知には、山内上杉家や扇谷上杉家が味方したが、古河公方・成氏との戦いは、応仁の乱をまたいで継続していた。

 この関東の戦乱は、文明十五年(一四八四)までつづいていたが、細川政元が和睦を提案、結果

 古河公方・足利成氏を関東の統治者とし、堀越公方・政知には、伊豆一国を割譲する、という条件で、和睦が成立してしまう。

 世に言う「都鄙和睦」

 これまで、二十年以上踏ん張ってきた政知は、自分とは関係のないところで結ばれた和睦により、伊豆一国の支配者に収められてしまう。

 (鎌倉公方は・・関東の王はわしではないのか!?)

 この衝撃が、彼に、わが子を将軍にしようとする工作へ走らせたという。義澄を将軍にした上で、三男の潤童子を堀越公方にする。そして、関東征伐を再開させ、おのれの一族が鎌倉公方になるのだ!!

 そういう目論見だったという。

 政知もまた、京都に将軍を擁立せんとしながら、八幡始めの聖都・鎌倉に、関東に執心している。このあたりの機微には首をひねるしかない。

 しかし、そんな彼も、延徳三年(一四九一)四月に堀越御所で没している。

 ・足利義政(一四九〇年正月没)

 ・足利義視(一四九一年正月没)

 ・足利政知(一四九一年四月没)

 このあたりは、なにか、一時代の終わりを感じさせる。しかも、義政と義視は、ともに祥月命日が一月七日、ちょうど一年後に没したのだ。ーー元来、もめるような三兄弟でもなかったのに、政局に引き裂かれ、最期は引かれるように同時に逝った・・そんな感がある。

 こうして、義政世代とでもいうべき人傑は、富子ただ一人になった。

 

 さて、大御所・義視の死によって、十代将軍義材の権力基盤は不安定化している。

 彼は近臣と協議し、思わぬ解決策に着手する。

 

 前将軍・義尚が手がけたものの、志半ばで急逝した事業

 六角氏討伐を再開するのだ。



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